アニメ英語翻訳の現場から
時にはまったく別のセリフに置き換える英訳も?!
筆者は、時に「アニオタ」というありがたい称号をいただくことがある。大学の言語学の授業などでたまに日本のアニメの英訳を材料として、社会言語学や翻訳の社会文化的背景の話をしたりするからだろう。ただ、メジャーなスタジオジブリの作品だけでも言語学のネタは満載なので、実はジブリ以外のアニメはそんなに詳しいわけではない。その「高貴」な称号も言語学を教える者としては、という但し書き付きのものである。
昨年(2021年)、ルーマニアのバベシュ・ボヨイ大学日本文化センターで日本のアニメを通した日本の言語と文化の話を、オンラインでする機会を与えられた。普段日本の大学でするような話をちょっと外国向けに英語でしたくらいのつもりだった(ルーマニア語できないので)。
ところが、ルーマニアのオンライン講演に集結してくださったツワモノたちの、日本アニメに関する知識ときたら、それこそ筆者など足下にも及ばない凄まじさだった。質疑応答になると、聞いたこともない日本アニメのタイトルを持ち出して質問なさるので、ごめんなさい、その作品見たことないんです、とたびたび謝ることになった。やがてルーマニアの方々の中に、筆者があまりにメジャー作品しか知らないので段々コイツだいじょうぶか的な雰囲気が流れはじめたことは言うまでもない。
このことは、今回の特集のテーマである「日本アニメを英語で!」の背景を象徴的に表しているように思う。世界には相当の「熱」をもって日本アニメを見ている人たちがいる。字幕や吹き替えで見ている人も多いようだが、確実にオリジナルの日本語への関心が近年高くなっている。
本稿でお話ししたい、日本人が日本アニメを英語で楽しむ妙味は、英語の吹き替えや字幕をオリジナルと比べることから生まれてくるものだ。日本映画の英語訳をあまりご覧になったことがない方は、英訳と言えば授業の英作文か何かを思い浮かべるかもしれない。そういう方は時にまったく訳とは言えないような別のセリフに置き換えられているものがあることに驚くに違いない。
相手のプライバシーを尊重した「独立訳」とは?
もちろん対訳を外国語学習の材料にするのはいろんな翻訳でできるわけだが、アニメを含めた映画・ドラマの場合は、ちょっと特殊である。吹き替えは特にそうだが、口が動いている間に英語のセリフを言わせなければならないという時間的・物理的な制約があるからである。字幕でも、時間当たりの文字数が決められている。当然、できるだけ余分と思われるものをそぎ落として訳さねばならない。
さらに重要なことに、日本語と英語とでは、ざっくりした言い方をとりあえずすると、コミュニケーションの文化が異なっている。そのため、日本語では自然と思われる会話のやりとりも、そのまま英語にすると奇妙な会話になってしまう。
英語の会話として自然なやりとりにする必要が出てくるが、そうなるとオリジナルとはずいぶん違った会話にならざるを得ないわけだ。逆に言えば、この日本語とのコントラストを知ることで、英語のどのような表現がその場面にふさわしいかを知ることができる。
例えば、1988年公開『となりのトトロ』の、1989年にStreamline Picturesが制作した英語吹き替え版(My Neighbor Totoro)は、これでもかというくらいにネタの宝庫である。
メイとサツキの母親は病床にあり、お見舞いに来たサツキをそばに呼び寄せ、「ちょっと短すぎない?」と言って髪をとかそうとする。
この英語版は、字幕も吹き替えも
Why don’t you let me brush your hair?
である。「ちょっと短すぎない?」をまったく訳してない。「髪を梳かさせて」と、サツキの意向を問う質問に替えられてしまっている。
ここで注意したいことは、たとえ小さな子供であっても、大事な身体的特徴であり、相手の侵害されざる独立領域である髪型にいきなり踏み込むことに英語では抑制がかかっているということだ。
「ちょっと短すぎない?」は余計なお世話なのである。髪型は自分の意志で決めているはずであるという想定があり、その自由意志に勝手に入り込まない訳になっている。
一方、日本人の感覚なら、母親が子供に対してこのようなことを言うのに何の違和感もないと思われるだろう。
筆者はこの種の訳を「独立訳」と呼んでいる。「独立」はアングロサクソンの特徴だ。「独立」志向のアングロサクソンから見れば、日本語のほうはずいぶんズケズケと相手の独立した領域に立ち入っているように見えるだろう。日本人にとってはさほど違和感がない。断りもなく相手に親切と思われることをしてあげることを「思いやり」と呼ぶ。言わなくてもわかること、察することは伝統的な日本のコミュニケーション文化では美徳である。
フレンドリーな人物像を演出する「つながり訳」とは?
違うタイプの訳として、コネクション志向の訳がある。今度は逆に訳を足すことで、オリジナルの日本語よりもフレンドリーな振る舞いを作り上げるための訳だ。「つながり訳」と筆者は呼んでいる。日本の「思いやり」のひとつの表れは、言わなくてもわかるという振る舞いであり、時に無言という態度になる。
一般に、ジブリ作品の人物たちの多くは、あまりしゃべりすぎない。無口なことも多い。しかし、無口な態度は、アングロサクソン的、ジブリの英訳者たちと考えられるアメリカ的には、非社交的だ。フレンドリーの対極にある。
『トトロ』を含め1980〜90年代のジブリ作品の英語訳は、オリジナルの日本語を時としてだいぶ無視して、アメリカ的な人物像を作り上げる訳になっていた。「独立訳」もその典型だが、「つながり訳」も多い。
沈黙の多くは埋められ、オリジナルではセリフがないところに(口が見えていなければ)セリフを入れ、どちらかというとアメリカ的な意味で社交的で、おしゃべりな人物を仕立て上げる。『トトロ』のカンタもオリジナル以上に英語版ではそこそこしゃべる。
例えば『トトロ』の冒頭シーンで、「お父さん」の「お家の方はどなたかいらっしゃいませんか?」の問いに、カンタは無言で田んぼの方を指さすが、英語版では、
They’re out there in the field.
と答えている。『魔女の宅急便』の黒猫のジジなどはオッサンそのもので、終始毒舌を吐きまくっている。オリジナルの『魔女の宅急便』ファンならちゃぶ台をひっくり返すこと請け合いである。
最近は日本語に忠実なグローバル訳が増えてきた!
ところが、この傾向は2000年あたりを境に変わってくる。端的に言えば、日本語に忠実な訳が増えてくる。先ほどの「ちょっと短すぎない?」で言えば、Walt Disney Home Entertainmentが2005年に全面改定した訳では、
You sure it isn’t a little too short?
である。さらに字幕では、
Isn’t yours too short?
とよりオリジナルに近くなる。一般に、よりシンプルに、よりオリジナルに忠実な訳は、作品や世の中がグローバル化するのと符合している。言ってみれば「グローバル訳」である。
見方を変えれば、アメリカ色、アングロサクソン色が薄れた英語になっていくということだ。仮にアングロサクソン系の英米人がこのぶっきらぼうな英語に違和感をおぼえたとしても、日本語的テイストを感じるほうがよいとの判断と考えられる。
この背景にあるのは、インターネットの進歩・発展と動画配信の広がりだろう。YouTubeがGoogleによって買収されたのが象徴だが、2006年のことである。この2000年前後にネット状況が大きく変化している。視聴のスタイルも当然変わってくる。
加えて、先のルーマニアの日本アニメファンの様子からも想像できるように、日本アニメのファンは世界中でますます増加傾向にある(日本動画協会/The Association of Japanese Animations)。このことは、インターネットや動画の普及でより加速したと考えられる。日本語がわかる人が増え、機械翻訳など日本語がわかるツールが発達してきた。
そうなると、20世紀のコテコテのアメリカ的な訳は難しくなってきた。日本における洋画の字幕翻訳にも同様のことが起こっていて、英語が聞き取れる人が増えたために、あまりぶっとんだ訳をつけられなくなったのと同様だ。
ネタとしてはどっぷりアメリカローカル訳のほうが筆者の商売はしやすいのだが。
今回の原稿は上記の雑誌の記事でも掲載されています。特集は「推しのアニメを英語で語ろう!」。「進撃の巨人」「鬼滅の刃」「鋼の錬金術師」などの人気アニメの英語レビューなども掲載しております。
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