セラピストとしての成長、個としての成長、魂としての成長

連日のセッション、連日のあまりに大きな奇跡に、自分の中で振り返って処理することが追い付かないほどになっている。


セラピーは、それこそ自分の無意識をうまく解放して最大値まで働かせて(つまりは催眠状態で、ということでもある)、深いセラピーができればできるほど、クライアントさんがとてつもなく大きく変わるのはもちろんなのだが、セラピスト側にも大変なセラピー効果をもたらす。

セラピーの後というのは、クライアントにもセラピストにも、数日間は少なくとも、無意識から新しいメッセージや気付き、何も考えておらず日常に追われているだけであっても勝手に分析も深まる。セラピー効果というのはその後にも何日も続くのだ。


それこそ、これが本物のセラピーなのだと、私は今現在数か月に1度で1年間の受講である催眠療法を軸として用いた”ひとの魂の療法体系論”とでも言える講座の中の実習セラピーで、私自身は初めて体感した。


セラピストはもちろん、セッションの後でクライアントさんの分と、クライアントさんとのセッション自体も振り返りをして更に深める。

(クライアントさんの立場に入ったり、クライアントさんの脚本分析に入ると、それこそまたあらゆる面から何日も自分の中にパーツとして置いて、日常の中で自分自身に多角的に気付きを得ていくかのようにしばらく関わってしまうのだが)


それと同時に、セラピストは、これらのセラピーを通して自分の中に起こる変化にもしっかりと向き合う必要がある。

自分をどんどん整えて行かないと、(自分の行う)セラピーに置いて行かれるからだ。そして、ちゃんとしたセラピーができなくなる。

自分が整っていけばいくほど、セラピー効果は飛ぶように倍増する。大変に不思議な話だと思われるかもしれないのだが、自然とセラピー技術も自分で行いながら驚くほど卓越していき、それに比例してセラピー効果も格段に増す。そしてカウンセリングやセラピーにも無駄がどんどんなくなっていく。そのセラピーの手綱を、しっかりととって行ける器でなくてはならないからだ。

どんなに良い道具があっても、どんなに道具がどんどん性能をあげていっても、それを扱う器がそれで怪我をしてしまっては、またその上で更に慌ててその道具を刃こぼれさせてしまうような使い方ばかりしては、何の意味もない。


宇宙が”その場”に施してくれるセラピーに、”乗っていく”ことができなければならないのだ。


そのためにも、クライアントさんの振り返りと同時並行で自分自身を怠らず容赦なく振り返り深めていくことは何より必要なことであろう。


そして、クライアントさんが変われば当然まるで世界が変わる。

内面だけではなく、表面上使っている言語体系すら変わる。


これを、例の講座における自分自身のセラピー(同時に他の受講生たちのセラピーも一気に何種類も体験しているわけなのだが)のなかなかまだ直後と言って良い時期に、…とはいえそれで私の深い部分にあった「恐れ」(クライアントさんが集まることに対しての恐れも含む)のブロックが解除されるに至ったのだから、当たり前といえば当たり前の話なのだが、私は何もしていない(宣伝どころかWebsiteの文字ひとつ変えていない)のに、新しいクライアントさんに立て続けにご縁を得た。

それにより、私はほぼ初めて、全く違う人間を相手にセラピーを連日立て続けたのだった。


あらゆる角度から、タイミングが来た、準備が整ったのだろうと思う。

それにしてもまるで振り返るも追いつくのが至難中の至難だ。

しかも、全員が全員、本当に深いところのセラピーを求めている。いや、ほんの少しアプローチしただけでも、勝手にとんでもない深いセラピーになる。

それだけ、私自身の内界にもとんでもない変化が現れては、それが地中のプレートのように、一度動き始めるとマグマやマントルを伴いながらあちらこちらに動き続けるのだ。


その上で、当のクライアントさんの分析は的確に行っていく必要があるわけだ。



…こんな世界が。


…そして、事ここに至ってから、私はふと、私は本当に通常のセラピストには、それこそ日本で何人もできないようなセラピーを、実際行うようになっている、いや、宇宙が私とこの器を通して行う、実際その筒になっているのだと、それこそ自分の存在の根底から揺らぐような実感に至った。


…それに、これはあくまで"ある意味で"と言いたい話なのだが、ここ最近の(自分の行う)セラピーを見ていると、それこそまるで宇宙か私の師がこの器を乗っ取ったかのようなぶっ飛んだやり方を次々するのだ。

いや、もともと私はぶっ飛んだ方法しか使っていなかった自覚はあるし、実際頭では、他の人にはできない、私であるからこそ私でしかできないセラピーをしているという…何というのだろうか、これは体感よりまだ頭の段階だったのだが、頭ではそれを知っていた。


本当に、事ここで時が来たのかもしれないと思う他ない。

いつの間にかこんなことになっていた。自分の分析の振り返りどころではない、いつの間にかこんな活動をしている、その事実を受け入れることにすらついていけていないかもしれないと思うほどだ。


…しかし、私は、これはどんな小さなことも含めてなのだが、小さい頃から「こうなりたい、こうしたい」と願ったことは、実は全て実現してきた、いや、されてきた、と、最近になって本当に突然実感する。

実際「言語表現」に置き換えると、一見実現不可能な願い(これをひとは「夢」というのだろうか?)も、実現させてきたことに、気付いた。

ひどく小さな小さな一例を挙げても、学生の頃だろうか、江戸長屋に住みたいというようなことを思ったことがあって、そのままそんなことも忘れ去って波乱万丈の人生を、しかもそれを思った人格と別の交代人格たちで過ごし、今なぜだかいつの間にか過ごすようになった…しかも最初はたった2ヶ月の約束で飛び出して過ごすことになったシェアハウスで、今まさに江戸長屋そのもののような生活(具体的にどこが江戸長屋なのかは、少々いろいろな具体例や訳があるのだが…)をしていることに、つい最近、突然気付いて無意識の底から天上まで突き抜けるかのような驚きに身を浸したばかりだ。


そして、私は「永続的な意識」になりたいとも望んだことがあった。そんな、到底実現できるわけもない。そんな自分で鼻で笑うような程度の、何の気ない(かどうかはわからないが)子供のような思い付きである。しかし、もしかしたらその瞬間は、魂が渇望するような自分でも気付かないような一瞬間があったかもしれない。

無意識領域、魂の視点にいつの間にかおり、集合的無意識を通してあらゆる情報を感じ取り(ともすればそれを意識化し)、それでいながら意識と無意識と魂次元を繋げ、魂の繋がっている次元からあらゆる体験までも引き出し、前世療法という形で体現するようにもなり(前世療法とは恐らくその人の前世に戻るという話ではなく、全て繋がった魂・宇宙の膨大なデータから、今ここのその人その状態に必要なデータをその人その状態の意識にわかる形に再構築し体現しているものである)、まさに、私は永続なる意識であったことを知った。


こんな抽象的なところからあまりに細かい具体的なところまで、挙げて行ってみればきりがないのだが、ところで私は、今回、私が恐らくこれは存在を賭けても学ぶべきであろうと突き動かされた1年がかりの講座を、今月ひとまず終えることとなる。まだ、この偉大な師の療法体系の、ほんの氷山の一角、ほんのさわりだけしか垣間見ることができていない。

それでも、この1年でこれだけこの器の人生変えてきたのだ。

この次にもぜひともに繋げたいが、それにはこの師のセラピスト養成に本気で入っていかねばならない。

そしてそれは、私が「今の私である」課題を何らかの形で乗り越える(そして「禁忌の受講生」でなくなる)必要がある。この師に例えいくら認められるまでに至ろうが、社会的に認められる形にもならねばならないからだ。しかも、演技ではなく。演技や自分に無理をかける形では、一瞬でバレる世界なのだから。

その上……先立つものがあまりに今の私には手の届くものではない。

そのため、今回は恐らく、これでひとまずはこの師の元を一旦去る決断をすることになるのだろう。いや、どうなるのかは全く私の”意識上では”予想がつかないのだが。

しかし何としても、この師の元には戻ることになるだろうとも思う。

完璧に申し分なく自分を整え、それこそ逆に宇宙の申し子のように如何様にも自分を調整できるようになり、我が師を先回りするくらいのものをきっと身につけ、身に秘め、そして現実的な準備も整って、きっと戻ることになるのだろう、と、何故だか思う。


…しかし、今回これで最後…今月中旬に3日間を終えれば本当に最後であるという現実に、知らず知らずついつい焦りを覚えたのも確かであった。

それと同時に、私は漠然となのだが、どうやら、ここと同じような世界に身を置く、と決めた…か、今後も自己分析や研究をこの1年と同じかそれ以上に深めていくために、ここと同じような世界同じような仲間が必要であると願ったのかもしれない。


無意識は、魂は、必ず、意識領域がまるで想像だにもできないようなところへと、引き上げてくれる。連れて行ってくれる。



また、今の私にはもうひとつ、はっきりと言語化されたばかりの夢がある。

まるでブラックジャックのような私を信頼して来てくれるクライアントさん達のためにも、やはり、ある程度の資格が欲しい。

いや、もちろんないわけではないのだが、何やら漠然とした資格ではなく。

いや、実はこれも、何より先立つものの理由なのだ。

なにぶん学会認定のものは、その後学会に所属する分も含め、またいくら既にその知識や技術があってもその学会の講義を受講せねばならないところや、その上初級から段階的に必要なところまでの資格を全て取得していかねばならないという点において、とてもではないが今の私には手の出しようがないのだ。手始めに一番最初の資格(とその受験資格を得るための講義)に挑戦しようと思っても、そこをクリアした時点で学会に永続的に所属せねばならなくなるため、年会費を考えると間をあけてこつこつと準備を整えるようなこともろくにできない。

それらのためにも今、着実にクリアできるための準備段階を与えられているのだとも、感じる。

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