実は目の前にある素晴らしい世界を知りたい―受け皿を開くこと

目の前にあるもの、起こる出来事、全てからは、実は(自分から制限をかけなければ)思いもしないとんでもない大きな、しかも今の自分に必要なものを、受け取ることができる。

ただし、その自分の受け皿をしっかりと広げて受け取るか、それとも自分でその面積を狭くするかは、自分で決めるもので在る。

表面的なところだけ見て、「あ、やっぱりそうなったか」だとか、「あ~、何となくそうなるような気がしていたんだよ、だから全然平気!(今までのパターンで受け嵌めつけた上に自分の感覚すらも閉ざして気付かない振りをする)」というのは、ただ単に過去に生きていて、自分の目の前には未知のものしか広がっていないのに、過去の出来事を自分ルールの中で解釈して決めつけて、その上で今ここで起こっていることも色眼鏡で歪め、そのパターンに当てはめてその出来事から実は受け取ることのできる大量の宝物を「受け取ってなるものか」と受け皿を必死で狭めて潰して、”自分にとって不利なもの(自分にとって不利な自分自身の解釈や決め事、自己ルール)”によって自分に与えられ来る宝物の嵐を防衛している状態、に過ぎない。

人と話していて、相手がこうした本人にとっても不利益しかない防衛によって自分の可能性を閉ざし、自分の人生の時間をもったいない使い方をしている状態であった時(交流分析的には”相手にディスカウントが働いている時”という言い方をするが)、何かもやもやするのは、当たり前である。

あまりに貴重な、本当にその時しかない、本人のチャンスを、そして本人は表面上の口や態度では「自分はなぜかいつもこうだ」とか「受け取りたい受け取りたい宝物が降ってくればいいのに」というようなことを言っているのにも拘わらず、いざそれこそ雨あられと降り注いで来ようとしている宝物に対して受け皿をわざと狭めているのだから。

「もやもやする時」や何か虚無感だとか喪失感のようなものを感じている時というのは、ほとんどの場合そういうことだと言っていい。

交流分析的に言うと、ディスカウントが働いている時。

これはあくまで「相手がディスカウント(自分の可能性の制限や物事の解決法の無視)を行っている」だけではなく、自分が行ってしまっている場合もある。

往々にしてディスカウントをしている時というのは、自分では気付かないものである(気付かない、という理由もメカニズムがあるのだが)。

だからそんな時、私はついつい、エリクソン的なアプローチで、何気ない会話の中でそのディスカウントがいつの間にか解けていくよう、必要な部分に気付いていくよう、言葉を選んだりするのであるが。

しかしそこで、相手が(無論表面的には通常の会話であるし本人も気付いていないのだが)「やはり受け取りたくない…」というようなものを呈して来たり、クライアントさんなどは場合は敢えて「受け取れませんよ、私は」というような意識下のメッセージを感じさせるものを返して来ると(あくまで表面的には明るくさっぱりしたような文面であったりもするわけだが、潜在的には「セラピーしてくれ」のために敢えてそのメッセージで気付かずディスカウントを続けるという反応が起こっている)、私はつい、静かに吐息が自分から洩れて行くことを感じることとなる。

その人が「今」の時間を僅かでも、しかもまさに「本人」が、表でも望んでいることなのだから、僅かでも気付くようにメタファーで折り込んで送っているにも拘わらず、いや、だからこそ、「受け取れない」パフォーマンスで私の時間外セラピーを求めようとしてしまう。

しかし、これで更にそれに乗って「返して」しまうと、これはクライアントの心理ゲームに乗ってしまうことになる。
(例えば…と書こうとしたが、単なる一面的、一角度からしか記すことのできない記事では無理だ。もしこの辺りご興味ある方は、ぜひ私に直に…)

そしてクライアントは、逆にどんどん建設的・健全な甘えをできなくなっていってしまう。全てを自分の受け皿をどんどんどんどん狭めるために使うようになってしまう。

しかし、本人が本当に気付くならば、本当にこれは今こそ貴重なチャンス、と感じることもある。

その時に「セッション」が入っていれば、それこそ全力で行うのだが。

この「一体何が違うの?」というほどの僅かな違いで、見極め損ねで、クライアントの反応や方向性を真逆に変えてしまいかねないのも、セラピストである…。

それが、例え本人にとって表面的には喜ばしいイベントや旅行であったりしたとしても、本人が「受け取らない」体験をする、という選択をしたのならば、それも本人の決めた「体験」のひとつ。

受け皿を空ける選択(新しいものを見る選択)をしなかったためにそのクライアントの2歩先に、落とし穴が待ち受けているのが見えたとしても。

クライアントが「敢えて」を仕掛けてきた時、

こちらも「敢えて」が必要となる時も、ある。

これ(今日の記事)は…半分、たまに(建設的な方向を確かめ進んでいくために)出しておきたくなる私の弱音でもある。

だから、今回の記事は、具体的な例としては意味がよくわからないものであろうと思うところも、認識の上で綴っている。

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