解離寛解者&研究者&催眠療法家としての考察、研究

私自身、こんなにも、「交代」の概念がなくなるとは思っていなかった。
今や、「交代がなくなった」どころではなく、交代という概念自体がもはやほとんど存在しない。

そして、その一方で、同時に、というべきなのかはわからないが、私は、この「器」を、享受し扱っていく気になったのだろう。
いや、もはやそれも良くわからない。
ただ、「在る」、ただ、器が筒となって現わされるものを「通す」という、それだけのような。

しかしながらそんな中でも、私自身にも表面的なエゴ、自我(自覚)、顕在意識というものは存在するので、ふと、「交代」という概念がこんなになくなっている今を不思議に感じたり、同時に「私」にもこの世で体験したいことがある、この器を通してであれそれくらい体験してみたい、と思うようなことが出てきていたり、するわけだ。
(実は本日の記事は、たったこの一言の愚痴を書きたいがために始めた単なる日記であった)

そして、ところで、「交代」というものの概念がほとんど消えている(しかし統合ではないし、私の場合身体の持ち主・戸籍上のデータと一致する人格でもないわけではあるが)、その一方で、私は不思議なことに(いや、ある意味では当たり前ながら)、まだ「交代」できる。
これは解離当事者の交代と同じ交代ができるのだが当時と似て非なるもので、もう既に「外側に」出た上で、意図的に、過去やっていたものを再現可能、という意味だ。
これは、現象(心のメカニズム)としては何ら不思議ではないとは思うのだが、社会的には不思議な事だろう。解離当事者は、統合したら、統合に耐えかねての「再解離」はあり得るが、意図的にその現象だけを(しかも当時と同じように)起こすということは基本的にできないものだ。
であるので、これは、私が元当事者であると同時に、パーツセラピーなども深い部分で行う催眠療法士でもあるからなのかもしれない。
(…もしかしたら、私自身が元々潜在意識の深い部分から浮上して深い部分を本能的に操作することが可能な交代人格だったから、ということもあるのか…わからないが)

そして、これは利用しない手はない。
解離者(精神疾患患者)は基本的に催眠療法の体得は(社会的に)不可能であるし、例え催眠自体は学ぶことができても私のような研究の仕方はまずなかろうと思う。
というのは、催眠療法は「精神疾患」には基本的に対応できない(してはならない)からだ。催眠こそが、解離や愛着などには唯一覿面な手法であるにも拘わらず。
時代が追いつかない、顕在意識の理解が追いつかない、ために。

これはもしかしたら傲慢に聞こえるかもしれないが、私は現段階で、セラピストとしての己の成長、そして心理療法(というより先般的なセラピー)には、それなりに自負を持っている。というより、自負を持つことができるまでに成長している、という方が正しいのかもしれないが。
そして、解離や愛着の当事者で、"その領域”を研究する人はあるかもしれないが、催眠を含め、私のような研究の仕方をしている人はまずほとんどいないだろうと思う。
その上で、私は今、「人格交代」の(しかも催眠療法的な意味での再現ではなく)当事者的な「再現」ができる。
(因みに同時に、他方の催眠療法における人格交代手法に関しても、深い部分での色々な角度での説明も可能であったり、用いる方面においても得意でもあるかもしれない。)
これは、もちろん色々な見方が派生してくることにもなりはするかもしれないが、解離性同一性障碍というものを極力語弊なく認知を広める上で、そしてそのメカニズムや接し方、現象、前進の仕方など、全てに亘って、研究者としての目線と当事者の目線を組み合わせて、しかもあらゆる角度から、説明可能となる。
しかも私(達)は、時として120名(120角度)以上はいたのだ。
(その上、現在、ひとつの大きな大海のようになっている今は、全く思わぬことに、120名以上いたとしてもやりきれないだろうと思うくらい多岐にわたる活動をしている。それは、これらの段階全てがあったからだと感じるものでもある)

今、(私は)地球上のひとつの大きな海のような状態である。
つまり、今までは、例えるならば大きな大きなクッキー生地があって、そこに、(恐らくは外側になんとか適応・対応するため・許容されるために)クッキー型を強く押し当てて、区切っていた。もしくは大海の中に無理やり石造りの井戸を作っていたと表現してみてもいい。
それが現在は、少し前まではその古井戸の名残も海底の方にはあったものの、今はそれすらほとんど、そして、敢えて呼ぶならば大海のどのあたりを太平洋と呼ぶか大西洋と呼ぶか、というような状態である。しかし呼んだところでそこの水も流動的で、別にどの水の粒子が太平洋のもので大西洋のもの、というような話ではないわけだ。
念のため、今でも、例えば「大西洋の部分を”濃くする”」というような工夫をする時はある。なぜなら、私が関わっている世界には、まだ、「解離時代」の状態(解離と相手がわかっているかわかっていないかは関係なく)で対応せねばうまくいかない場面がある(と、少なくとも私が感じてしまっている)からだ。
これはつい最近まで「最後に残った唯一の交代」であったが、いつの間にか、それすら「交代」ではなくなった。

私は、解離当事者兼セラピストとして、いずれ、解離性同一性障碍に関するサポートセミナーのようなものも設置して行こうと考えている。
研究者や当事者を卒業(寛解)した者の目線からだけではわかりづらかったり説明しきれない部分もある。これを、当事者目線からも実演し説明していくことは、できるならば、利用しない手はない。
ついこの前、ふと、布団の上で、意図的な「交代(の再現)」をしてみた。
しかもなぜだか、この器の学生時代に随分と問題を起こしたもととなった、当時は「危険者」と言われていた人格を表に出してみた。
不思議なほど、当時と同じような交代ができた。
(私は交代人格時分にも、奥底の方から包括して全てを観察して、誰かが表に出ていても全て観察することができていたような時期があったので、今もそのような二重三重意識のようなものを操作できるのかもしれない。)
この人格は、半身不随の人格であった。人格交代時には、その者の体質や症状もまさに「切り替わる」ように変わるが、この者の半身不随の状態も、そのままであった(出てきた、という意味で)。声も変わり、そして、こればかりは少々不安を感じざるを得ない、記憶状態までも、普段は顕在意識ではまるで思い出しもしない彼特有の彼が表にいた時の記憶や考え方などが、はっきりと自覚されてきた。今でもこんな現象が起こるのか、と、驚くほどに。
それと同時に、これは別の角度から面白いことではあるが、彼の状態に交代しても、今現在居住しているシェアハウスの内部(例えばトイレへの行き方など)は頭の中で彼が再現することができた。彼は、このシェアハウスに移る随分前から、もう表には浮上しなくなっていた。”彼”が知っているはずはないのだが。しかも、トイレへ行くまでに、このシェアハウス内は少々不自然な間取りで(配管設備を後付けしたなどの事情のようだ)、廊下の途中、変なところに一段段差がある。しかも、シェアハウスに来てからは”私”が生活しているため、視覚が利く者であればそこまで意識して記憶していることもない段差であろうが、私はかなり意識していなければ危険が生じるため、位置や高さなどシェアハウスの中の情報の中でもかなり目立つような記憶の仕方をしている。そして、彼の頭の中でもトイレへの道筋の再現で、まずそれが最前に思い出されてきたのである。そして、半身不随である彼は、この段差のためにこの器を排泄に運ぶことができない、とまで、部屋の布団の上にいながらにして結論付けた。
つまり、今の私はやはり「牛耳っている」わけでもなければ、統合しているわけでもなく、大海のような全体の状態となっているため、大海となった後でわざわざクッキー型を海に押し付けてみても、大海として体験したことは覚えているかもしれない(とはいえ、彼独自の顕在意識が浮上してくることで大海としての記憶情報自体は「後退」はするかもしれない、これらは交代する人格にもよるかもしれない)。そんな化学反応はあるが、かなり当事者時分と変わりのない交代現象が起こったのであった。
それから…もうひとつだけ覚え書きとして記録しておくと、彼の自覚となっても、視覚は彼独りの時よりも利いていなかったかもしれない。いや、もしかしたら、今の私が彼に交代していた時の視覚情報を記憶できていないだけかもしれないし(私は他の交代人格の視覚情報や自分自身が視覚を何とかして使っている時の視覚情報記憶をうまく自分の認識に取り入れることができない傾向は強い)、もしかしたら彼も実はそこまで視覚は利いておらず、ごまかしている自覚すらなかっただけなのが、大海の状態を経た後で、自覚が自然なものとなっただけかもわからない。

何にせよ、この時の交代はごく短時間で済ませた。

と、同時に、この交代の実験研究はやはり、誰かがいてくれる時の方が良い気がした。我々には身体障碍者や精神障碍者も多いため、実験・研究課程自体で何が起こるかわからず、サポートが必要な場合が出てくる。そんなことはまだ軽い話だが、独りでやると、記憶状態の変化にやはり完全に客観的に操作調査できない可能性が出てくる。そして、その記憶状態や考え方の変化を完全にもと(大海の方)に戻すだけの、暗示(催眠操作)技術が私にしっかりと備わっているか。というより、もとに戻したくなくなってしまう、当事者時分の感覚が蘇ってきてしまう(そこに嵌りたくなってしまう)面がやはりよぎる。
ジキル博士とハイド氏のジキル博士が、自分の「(記憶や考え方をも含む)人格」自体に作用するとわかっていながら第三者を立てず自作の薬を煽るようなところに通ずる危険性を僅かながら感じた。
ユングの言う、深い潜在意識を旅している間でも、確実に顕在意識を現実にしがみつかせておかなければ戻って来られなくなる危険性にも通ずるものかもしれない。

しかし、これは私自身の成長と言う角度から、「自覚」をしていく、狭義の自覚にとらわれるのではなく今度は逆にそれを改めて広げ深めるために自覚を重ねていく、ということ自体は、益となるものではないかとも感じている。

実験・研究仲間、パートナーが、ぜひとも欲しい、昨今である。

もし、ご興味のある方、おられたら、お気軽にお声がけいただきたい。


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