エリクソン関係の書籍の翻訳が解読不能なものとなる理由/本当の利用的アプローチの姿

ある人と、久々にエリクソンの話をした。
私のセッション内で逸話としてエリクソン博士の名前を出すことや、ネタとして出すことはあるのだが、エリクソン催眠の話はなかなかしない。

久しぶりに、エリクソン関係の本を読んでいるが…という話をしたのだった。
私の体験上、そして、私の師たちに聞いてもだが、催眠を学びながらエリクソン催眠の専門書を読むことは、お勧めしない…
時間の無駄でしかない、それくらいならばエリクソン催眠を実際行っている師に就くか、もしくは土台から積み上げていくための(要するにエリクソン博士本人もまず学び研究してきたような形を踏襲して)催眠や心理学や脳神経学の専門書を読んだ方がよっぽど良い。

というのも、なぜかといえば、エリクソン関係の書籍は、まともな翻訳がほとんどないということ。
原語で読める方には、エリクソン関係の書籍は恐らく非常に有意義であろうと思う!

エリクソン関係の資料をインターネットで探すと、翻訳のひどさはレビューでも定評がある。高校生が訳す方がまだマシなほどの逐語訳ぶり、誤訳が多い、とも言われるほど。
せめて監修もついていないというのは、この時代背景もあるのだろうか?1900年代前半の書籍だということや、翻訳された時代も少しばかり前だから、など…出版関係の事情は私は知らない。

しかし、エリクソン関係の書籍が翻訳しにくいことは確かだろうと思う。

なぜなら、理由はいくつかあるが、軽くあげても以下のようなところがいえる。

〇エリクソンは、何かについて説明する時、非常に日常的、俗的な簡単な言葉で説明した。
―これは訳しやすいのでは?と一見思われそうだが、逆だ。日常的、俗的な言葉であればあるほど、言語には文化背景のニュアンスが色濃く結びつくものである。そのため、単語や文章だけをただ単に英語→日本語へ訳したところで、結局日本語訳書では一番大事な意味が伝わらないのである。

〇エリクソンは、非常に巧みに言語の中であらゆることを行った。それでいて、セラピスト・精神科医としては一見、表面的には逸脱したような、「まともな」業種的見方をすれば信じられないようなことや理解できないようなことばかり行っていた。
―私はエリクソンの弟子がエリクソンとの対話を書き起こした本を読もうとしてみたことがあるが、この本の訳者は、精神科医であった。エリクソンが精神科医であったから精神科医に理解できる、訳せるかというと、恐らく逆にまるで理解できないのかもしれないと思う。エリクソン本人やエリクソンの治療法そのものを研究していた弟子たちですら、あまりのエリクソンの引き出しの多さ、広さ、クライアントごとのアプローチや計算の違いぶりに、ひっくり返っていたのだから。
ちなみにその本はとんでもない逐語訳で簡単な会話すら読んでも意味がわからず、しかも日本語を読んでいるだけでもわかるほど明らかな誤訳がいくつも発見された。誰かに頼まれて翻訳を手掛けたのかもしれないが、お気の毒である…。

〇エリクソンは、非常に言葉の裏の意味や文化背景的意味を感じさせることで無意識に伝えるべきことを伝えたり、「掛け言葉」「言葉のあや」を多用した。
―多用した、というより、恐らくほとんどの会話がそれで成り立っていたのではないかと。
しかし、だからと言ってエリクソンの言葉は大切に訳そうとして逐語訳をしても、日本人にはまるで伝わらない。逐語訳をすればニュアンスは一切失われるし、私はその分、エリクソンは随分特殊な話し方をしていたのかと思ってしまっていた時期すらあった。が、エリクソンは非常にゆっくりした話し方ではあったが英語としては本当にごくごく自然な、それでいて正確でわかりやすい英語で話していたようだし、そもそもクライアントにはいつもいつも「逸話」で物語ばかり聞かせて、それでいながらいつの間にか症状が消失する、というような技法ばかり使っていたのだ。逸話自体が複雑で難解で言葉の使い方も特殊であったら、クライアントには伝わらないばかりか気付きも何もない。エリクソンは非常に誰にとってもわかりやすく話すことができていたのは明らかである。
そして、エリクソンは英語だからこそ可能となる掛け言葉や、言葉の持つ他の意味(他の角度からの捉え方)や、日本語では反対語は全く別の言葉になるが英語ならば「un」や「dis」がつくだけであるがために錯覚のように刷り込んでゆくことができる言葉を頻繁に使っていた。
しかもそこで非言語コミュニケーションも利用して僅かな言葉で何重にも相手の潜在意識に意味を伝えたり指示していたのだから、もはや日本語には訳しようがない。
ごくごく簡単な、しかも日本語でも説明できるようなところでも、例えばエリクソンが被験者を催眠に入れていて、「私にはよくわかりませんが…あなたは瞬きをするでしょう」というようなことを言った時、被暗示性の高まっていた被験者は目を閉じてしまった。他の見ていた弟子たちはどうして被験者が目を閉じたのか、どのタイミングで目を閉じたのかわからず、エリクソンに聞き、そのビデオも見たら、なんとエリクソンの「私にはよくわかりませんが(I can't see…)」と言っていた時に目を閉じていた。あまりに被暗示性が高まっていたため、被験者が「I can't see(私にはよくわからないが)」を「Eye can't see(目はもう見ることができない)」と捉えたのだということがわかった、など。とにもかくにも英語で読まねば、いや、英語で読んでもそういう意味で「研究者にとって難解」なところがたくさんあるわけだ。
他、催眠において日本語では否定形や二重否定などは危険極まりないが、英語においては敢えて「dis」「un」などがつくだけの言葉を使うことによって「潜在意識には肯定形を」埋め込んでいく、などという絡め手や、クライアント自身が表面的には通じる意味だが実は別の取り方をすれば全く違う意味となる英語表現を使ってきて、エリクソンはその意味を読み取り、同じように表面的には通じるような言葉で返しながらも潜在的には別の意味を埋め込みクライアントをいつの間にかリフレーミングさせたり、など。
エリクソンはそうでなくとも学生時代、辞書を愛読していたという。もはや英語母語話者ですら使いこなせないほどに卓越した”国語”の使い手だったのだ。

せめて弟子が訳すならばまだしも……しかし、エリクソンの弟子でいて卓越した日本語の使い手(翻訳者)であることも難しいだろう。
そして、何よりエリクソンはその人生・日常と彼の治療技法が密接に繋がっていた。
弟子であれ、エリクソンと長く生活をともにしているわけではないので、断片的にしか見ることができない。家族はエリクソンの生活を見ているだろうが、専門家ではないから専門家的視点で考察することも繋げることもできない。

更にはエリクソン自身、「型に嵌めること(エリクソンのやり方を分析したり枠付けしたり体系化してモデルを作ったり)は、寧ろそれによって治療的意義を失うこととなってしまうだろう」というようなことを言っている。外側のモデル(ルール)に当て嵌めてそれを見ようとしてしまったり、それを意図的に使おうとし出してしまうからだ。

これこそが、生き様から滲み出ていると言える象徴的なモデルだろう。
生き様とそこから滲み出ていつの間にか世間に発揮されるものは、それこそが「あるがまま」であり、文字化することも言葉にすることも、真似することもできないのだ。

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