生活で視力を使えるとはどういう状態なのか―私が誤解されやすいところ・困っていること

私の、困っていること。
そして私自身の特徴でありながらも、それを家族にすら(いや、逆に近く長い付き合いの人であるほど、逆にひたすら隠し誤魔化してきてしまったがために)わかってもらうことがひどく難しいことについて、綴ってみたいと思います。

私は、ながらく、視覚障害であるとは思われていなかった時期がありました。
しかしながら、だからといってそれまで「視覚」で生活をしてきたかというとどうもそうではなく、「視覚情報を受け取っているかのように」補う方法で暮らしてきた、というほうが非常に近いのです。

そもそもここを説明するのがまず、とてつもなく複雑で長くなります。しかもその説明をするために「見える」ということはどういうことか、「意識」とはなにか、「眼球や脳のメカニズムは」というような説明にも入らなければならないような事態に陥ってくる……つまり一般の人たちが呼吸をするより当たり前に無自覚に発育しそうなっているメカニズム事態が当たり前ではない世界、しかしそれがわかっていないがゆえに齟齬が起こってくる現象、話になってくるので、少なくともこの記事ひとつでは説明しきれません。

それでも、やはり日常でお互い齟齬が出てきてしまうのでお話できそうなところから少しずつでもお話していこうという次第で、その中で本日、開示するのが、

私は「視覚情報」が視覚情報としては記憶されていないのだ、ということ。

私は、「かつては見えていた」ようにどうしても思われがちなのです。

そして、家にあるものだとか、前に見たものだとか、そんなものを当たり前に私がわかっているような前提で話をされることが多い。
私もそれに無理やり誤魔化す形で適応しようとしてきたわけなので、もちろんそれに無理はないのですがね。

…それからもうひとつ補助的にお話したいのが、例えば晴眼者のかたが、弱視の見えかたの動画や画像など見た時、案外「当事者」の困り度よりは「ああ、こんなものか」と思いがちだと思います。
あとは、その日だけのアイマスクをつけた視覚障害者体験、など。
これはどうしてかというと、その「体験者」は、普段が見えているだけに、その普段も見ている世界が突然ほとんど真っ白になったりアイマスクで隠されたりしたところで、脳内にその記憶としてのマップがあるわけです。

ただ、最初から弱視であったり全盲でそもそも最初から「視覚情報」が入っていないひとは、例え弱視で「ある程度見えている」状態があったところで、それは脳内で処理できるほどの鮮明な画像情報ではないのです。
そもそも「ちゃんと見えている」状態を知らないのだ、ということを、忘れないで欲しいのです。

最初から視覚情報の処理がかなりできている(世の中的な言い方では「見えている」)ひとは、脳で相当部分を補完したり予測することができています。

しかし、最初からその情報がほとんどぼやけていたら、補完も予測もしようがなく、ぼんやり見えているものがあったとしても、それでは認識や理解解釈には不十分なのです。
本当に断片的な例えばという話ですが、街を歩いているときの弱視者の見えかた、などといってぼやけた写真があったとしても、そもそも普段の日常で街の景色が見えているひとは、その写真の中でほとんどぼやけていたとしても、「あ、ここに標識がある」「信号がある」「あ、これは車の後ろ姿だ」などと、無自覚に見えていると思います。
いや、”知っている”ので、「見え」ます。それは、目ではなく、脳で見ています。
だから、見えているつもりになっているのですが、実はそれは何度も言いますが、「脳」で見えている「心象風景」であって、実際、網膜が映しているそのままの画像ではないのです。
世界が「目」で見えている、ぼんやりしているかはっきりしているかのような視力云々に拘わらず、「生活視力」は、脳による前提機能によって形成されるのです。

しかし、もともとの弱視者はそんな分析したことがないし、晴眼者の見えかたで街を見たことがそもそもないので、脳内情報も揃っておらず、情報にならないぼやけた状態のまま、わかりやすく言えば脳内にも到達しない状態のまま生活しているのです。これは、「生活視力」ではありません。
(その人の生活能力は、目を使わない他の感覚によって育ってきています。)

例えばですが、あなたは知らない言語、例えばロシア人にロシア語でいきなり話しかけられたら、その言葉を聞き取ることができませんよね。それは、相手がどんなにはっきりゆっくり発音してくれていたとしても同じ。
それでも、もしあなたがロシア語の単語を大分知っていたりしたら、「あ、今〇〇って言った」などと、断片的にでも聞き取れるようになっていますよね。それは、相手がはっきりゆっくり大きな声で発音してくれたからでもなんでもなく、あなたの「脳」が聞こえる音の羅列から(ある意味勝手に)意味付けして解釈して初めて「聞こえた(聞き取れた)」と判断するものなのです。それまで音を聞き取れなかったわけではありません。音の意味がわかって初めて「聞こえた」とひとは判断するものなのです。
これは、他の五感でも同じです。
ちなみに私は、体感覚で、現代人はあらゆる感覚を本当は感じているのにも拘わらず狭義の名前(例えば「痛い」)をつけてその言語枠の中に全部ぶちこんでしまい、その言葉の中に入らない感覚は「感じていない」としてしまっていて本当は豊かにあらゆることを感じている身体の感覚を無視している人が大半であるので…そういうかたたちに、身体の感覚をちゃんとそのまま味わい感じて行く(たったいくつかの枠に当て嵌め捻じ込みその枠に入らないものは無視する、というのではなく…)、ということも、やっていますが。

心療眼科医の若倉先生がご著書の冒頭にも書いておられますが、視覚も同じです。視覚も、例え網膜が画像を何かうつしていようがいまいが、それを脳内の記憶処理システムや意味解釈システムなど膨大な組織的機能と連携して情報処理せねば、そもそも「見える」という現象にならないのです。

ちょっと話をすっ飛ばして戻します。
私は、視覚情報を「視覚情報として」記憶できておりません。
つまり、画像がそのまま記憶にはなっていないのです。
つまり、例えその当時見えていたとしても見えていなかったとしても、「見た」記憶も、「そのもの」の視覚的記憶もありません。

しかし、なぜかこの世では「視覚的記憶」を物凄く日常で多用せねばならないため、私は恐らく幼い頃からいつのまにか、ひたすら頭の中で言語脳が発達したのかもしれません……視覚情報をでき得る限り「言葉」に置き換えて、つまりは自分で自分に、目が見える人が目が見えない人に視覚情報を説明するかのように説明して聞かせ、その言葉として記憶するようにし出しました。
しかし、例えば「ひとの顔」などが最たるものですが、言葉で説明できない視覚情報は、記憶できません。そもそも認識処理できていないようです。

例えば桜を見ても、後日、「桜があった」ことは思い出すことができます。
しかし、多くの人は桜を見た記憶とともに桜の姿の記憶も出てくることと思います。それはでてきません。
だから、その時に言語化していなければ、どれくらい咲いていた桜だとか、色だとか、大きさだとか、そんなものはわかりません。
そもそもその時も「見えて」いない(視覚情報処理は少なくともできていない。そもそも目を開けること自体ダメージにしかならない)ため、その時に隣にいるひとが説明してくれたり、そこで私の頭の中で言語化が行われていたりしたら、その言語情報記憶としては残ります。

道や場所の記憶もそうです。
私は、どこに何がある、はわかっていません。
ただ、言語的な歩数で覚えた情報や、足裏の感覚記憶、風がこう当たったら十字路だからこちらにいく、など。

「見た記憶」などというのも話はできますが、しかし、他の人が言う「見た」とは、どうやら概念が違います。
私は当時、視覚情報を実際に処理していた時期もあります。
「見えていなかったのにどうしてこれができたんだ」と問い詰められれば、説明できないこと、たくさんあります。
しかしながら、今になって自覚し、言えることは、私の場合、他のひとの「見る」システムとは別システムを使い、非常にひたすら変換過程が多いやりかたで、裏技に裏技を重ねるかのような方法で「見えている」とみんなに少なくとも表面的に認めてもらえるような処理をしていた、ということ。
しかしこれも、あまりに複雑で、説明できません。
ここまで説明できているだけでも、辛うじて私自身が心身の専門家としての言葉を駆使できるからだとすら思います。
しかしそんな実は眼球使用困難のかた、案外いらっしゃるのではないかとも思います。

だから、結局のところ「視覚障害者である今」、かつて「視覚障害者ではなかった頃」かのような話をされると、実はものすごく噛み合わないことがたくさんある。
ふりで誤魔化してはいたけれど、だからといって、あなたがたと同じ「見える」概念ではやはり話についていけない。噛み合わない。
「見える」の種類が違う。
しかもそれはかなりの大変換……例えば水を貯めておく器がないからと言って、水を貯めるために唯一そこにあった電子レンジをひっくり返してその中に水を入れて溜めておくかのような物凄い代替利用法をしていた…ようなので、とんでもなく心身に負荷がかかっていました。

これ以上やると、もう「見えている」ことを演じるためだけに日常も心も身体も全部壊れてしまいます。

…と同時に、私はもともと「見えて」はいなかったので、かつては見えていた人のように接されると、結局齟齬や混乱が起きてきて、なぜだかわかっていない、通じていない、がお互いに出てくるのです。

そのため、元々見えていない状態の私から関わっている人のほうが、細かい部分で齟齬やお互いの勘違いや思い込みも少なく、コミュニケーションが自然にいきます。
なぜなら、やはりその「もともとの前提的な脳処理や情報」というものの世界が違うところがあり、これを「もとは晴眼者だった」と思われることにより、そこから目が見えなくなったようなやりかたに思われる…もしくは目で光を受け取りさえすれば「生活視力」があるかのように勘違いされてしまうのかもしれません。

そんな、私自身の複雑な視覚障害や、
国の障害認定基準や医師の言語化・診断の基準にまだないが実は確かに現象・実際としてはある複雑な障害(これが視機能の場合に眼球使用困難症と呼ばれるようになってきておりますが)、
普段の具体的な生活の方法、
私の最近かなり真剣に始めている点字訓練など、

点字訓練枠・座談会枠などとして配信を始めています。

また、社会的マイノリティの当事者を含めあらゆるかたがたと、繋がりを持ち、情報交換、情報共有の場としていきたいと思っております。
ご興味を持って下さったかたは、どんなかたもぜひお話かけください。


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