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マイルス・デイヴィスとウィントン・マルサリス


今はなき「月刊プレイボーイ」2006年8月号に書いた、マイルス・デイヴィスとウィントン・マルサリスについての記事です。マイルス生誕80年記念の特集だったと思います。

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「似る」ことと「成る」ことーマイルス・デイヴィスとウィントン・マルサリス

                 村井康司


 1986年6月27日、カナダのヴァンクーヴァーで、マイルス・デイヴィスとウィントン・マルサリスは、彼らの生涯でただ一度の「共演」を行った。演奏した曲は、マイルス作のスロー・ブルース「スター・ピープル」。しかし、この「共演」は、よくありがちなサプライズ・ゲストとしてウィントンが登場したわけではまったくなかったのだ。当然のことながら、普通の意味での「サプライズ・ゲスト」は、あくまでもオーディエンスにとっての驚きなわけだ。ところが、ここでのウィントンの登場は、なんとマイルス本人にとっても突然の出来事だったらしい。そのへんの事情をマイルス本人に語ってもらおう。

「オレが演奏していると、突然何かが近寄ってくる感じがして、なぜか観衆も大喜びしはじめた。息を飲んで、何かを期待しているような感じだった。ウィントンの野郎だった。そして、演奏しようとしているオレの耳元でウィントンが囁いた。『ここに来いと言われたんだ』。オレは腹を立てて『おい、ステージを降りろ、この野郎』と言った」(マイルス・デイヴィス、クインシー・トゥループ『マイルス・デイビス自叙伝』下巻より)

 この「唯一の共演」の模様は、さきごろ出たブートレグCD『マイルス・ミーツ・ウィントン』で、つぶさに追体験できる。自伝ではマイルスはウィントンをけんもほろろに追い返したことになっているのだが、実際はウィントンは1分ほどソロを吹き、マイルスはキーボードでそれにバッキングを付けている。実は気遣いにあふれた人間であるマイルスは、満場の観衆の前でウィントンのメンツを傷つけないように配慮したのだろう。そして、ウィントンより35歳年上で、ミュージシャンとしてのキャリアも年齢の分だけ多いマイルスは、ここでのウィントンの振る舞いを無礼なことだとして苦言を呈している。「ウィントンの行動は、彼が年上の人間に対して、なんの敬意も払っていないことをよく示していた。(略)ディズ(注:ディジー・ガレスピー)のような親しい人間に対してだって、オレは突然ステージに出ていったり絶対しないし、ディズだってそうだ」(『自叙伝』下巻より)

 ここでのマイルスの意見は、誰が聞いても納得せざるを得ない、しごくまっとうなものだ。とは言え、マイルスとウィントンの関係が良好なものだったら、突然の乱入事件も、たんなる笑い話となっていたことだろう。マイルスが60年代に作り上げた音楽を手本として成長してきたウィントンは、ある時期からマイルスを執拗なまでに批判するようになっていたのだ。いわく、偉大なジャズのイノヴェーターだったマイルスは、現在はエレクトリック・サウンドとポップ・ミュージックに媚を売っている、いわく、マイルスの今の音楽は、ジャズと彼自身の業績を否定するものでしかない……。ニューオリンズ・ジャズから60年代までの「アコースティック・ジャズ」の伝統を守ることを自分の責務だと考え、芸術音楽としてのジャズの存在意義はソウルやロックに色目を使った「フュージョン」には断じてないのだ、と信じるウィントンにとって、70年代以降のマイルスの音楽は、彼が60年代までのマイルスを深く尊敬しているだけに、本気で許し難いものであるようだ。そうは言っても、アイドルであることは間違いないマイルスと共演できるチャンスに、胸を躍らせてステージに上がるあたりが、ウィントンのかわいいところではあるのだけど。

 ウィントンに対するマイルスの怒りは、たんに「若造が生意気なことをほざきやがって」という感情的なものではないようだ。音楽については恐ろしく公平なマイルスは、ウィントン・マルサリスという「若造」が、トランペッターとしてただならぬ実力を持っていることを、誰よりもよく分かっていたはずなのだから。マイルスのいらだちは、ウィントンの「ジャズ」に対するスタンスが、ジャズそのものを当事者として創造してきた自分たちとは根本的に異なっている、という点にあったのではないか。ここでまた『自叙伝』を引用しよう。「ウィントンはそうした生命の感じられない、誰にだってできる類いのことを演奏している。そのために必要なのは才能じゃない。練習、練習、練習、それだけだ」
「ウィントンは、オレや、彼以前に生まれたミュージシャンが取った方法から、もっと学ぶべきだ。(略)彼には、即興音楽について学ぶことが、まだまだ山ほどあるはずだ」

 ここでマイルスが「先輩たちに学べ」と言っているのは、既成のジャズのセオリーや奏法についてではないだろう。「ジャズらしく演奏すること」ではなく、「自分にしかできない『ジャズ』を創造すること」を本気で学ばなければ、マイルスが生涯を賭けてクリエイトしてきた「ジャズ」はだめになってしまう、という危機感が、マイルスにこうした発言をさせたのだ。

 1970年、マイルスは黒人で初めてボクシングのヘヴィー級チャンピオンになったジャック・ジョンソンの記録映画の音楽を担当した。そこでのマイルスたちの演奏は、その時点のマイルスが最もヒップだと考えていた、シャッフル・ビートに乗せてぎんぎんにロックするものだ。そして2004年、ウィントンはジャック・ジョンソンの伝記映画の音楽を、おそらくは満を持して担当する。そこでウィントンが作り上げた音楽は、ジョンソンが活躍していた1900年代初頭のジャズやラグタイムを、非常に緻密に組み合わせたものだった。
 そう、ウィントンはジャック・ジョンソンの時代の音楽に「似ること」を考え、マイルスは自分自身がジャック・ジョンソンに「なること」を考えたのだ。
(「月刊プレイボーイ」2006年8月号)

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