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『ニコマコス倫理学』第1巻

今回から、アリストテレスの『二コマコス倫理学』を読んでいく。他の皆さんは朴一功訳、京都大学出版会の方を読まれているが、僕はだいぶ以前に買って積読になっていた高田三郎訳、岩波文庫があったので、そちらで読み進めていく。納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)と交互に読んでいくことで、理解を深めていこうという試みがスタートする。
哲学書、特にギリシャ哲学はこれまでの人生の中で読もうと何度もトライして、途中で諦めてきた(挫折してきた)ものなので、今回もはなはだついていけるのか怪しいが、こういう機会でも無いと読み進めることはなかったので、ありがたい機会と捉えて臨んでいきたい。理解がどこまでできるか不明なので、概要部分は、ほぼ僕のメモである。

今回はまずは第1巻(第1章〜第13章から成る)を読んでいく。

概要

全てのことは「善(アガトン)」を希求しているが、棟梁的なものの目的の方が従属的なものより上位に来る。(統帥>軍事>騎馬のように)
そして無限に遡っていったものが最高善(ト・アリスタン)となるが、それが何なのか。国家の教育や程度などを規律する政治(ヘー・ポリティケー)がこうした性質をもつと見られる。「人間というものの善」こそが政治の究極目的であるべきとなる。
しかしながら、全てのものが洩れがある。そのため、論議を進める上でもそれがあることを前提にしないといけない。

最上の善は「幸福(エウダイモニア)」であり「よく生きている(エウ・ゼーン)」「よくやっている(エウ・プラッティン)」が「幸福にしている(エウダイモネイン)」と同じ意味になる。幸福は人によって異なり、低俗な人は快楽(ヘードネー)となり、たしなみのある実践者は名誉となる。名誉は卓越性・徳(アレテー)により与えられるとなるため、彼らにとってはアレテーが重要となる。
富を希求する人もいるが、富はあくまでなにかのために役立つものである。

「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」が究極的であり、その性質を多分に持つのが幸福である。

生きているのは植物も動物も人も同じであるがことわりを有する部分(ト・ロゴン・エコン)の働きがあり、知性認識をするところのものが人間特有である。その人間の卓越性に即しての魂の活動が善ということになる。

最もうるわしきは健やかであること
最も快しきは、自らの愛するものを首尾よく獲得すること

こうした諸活動ないしはこれらのうちの最善のものが「幸福」となり、究極的な卓越性に即しての魂のある活動である。卓越性とは、知性的なものと倫理的なものがあり、知恵などは前者に、寛厚や節制や後者に属し、賞賛すべき状態を卓越性と呼ぶ。

私見

人がどうやって「よく生きるか」ということを決める上での判断基準となるのが美意識であり、それがまさにここでいうところの「善(アガトン)」である。同志社大学で教えている学生がプレゼンテーションの中で、この美意識・善が積み重なってきて、今に残されていたエッセンス的なものが「文化」ではなかろうか、ということを話していた。だからこそ温故知新を重ねていくためにも、その古来から普遍的な善を希求してきた流れや構造を見ていく必要があるだろう、と。今回の対象範囲では、この善の構造が述べられていたのがとっかかりとしても興味深いものだった。


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