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『ソフィストとは誰か?』(納富 信留)を読む−第1部第4章「ソフィスト術の父ゴルギアス」‐5章「力としての言論‐ゴルギアス『ヘレネ頌』」

アリストテレスの『二コマコス倫理学』と納富 信留氏の『ソフィストとは誰か?』を交互に読み進めている。今回は、後者の第1部第4章‐5章を読む。ソフィストへのこれまでの想いが急降下する内容だった。

■概要
ゴルギアスはプラトンが著作の中でソクラテスの対話相手として登場させた人物というくらいソフィストを象徴する人である。シチリア島東部のレオンティノイ生まれだったがシラクサに占領されて祖国を失い、流浪になったことから各国をソフィストとして渡り歩き、多額の授業料を得た。特に活躍したのがアテナイだった。
ゴルギアスが生まれた当時のシチリアは、哲学や自然学が混じり合う高度な思考の交差点だった。そして政治体制の変動・混乱が多かったため、土地などの支配権や財産についての訴訟が数多く起き、「弁論術」は「技術」として求められていったという背景があった。

ゴルギアスのその技術は、絶対的力を持つ「神」と無力な「人間」との峻別というギリシアの伝統的人間観に依拠した三段論法の形がメイン。

[大前提]強者が弱者を支配し導くことは、自然である
[小前提]神は、あらゆる点で強者であり、人間は弱者である
[結論]したがって、神が人間を支配し導くことは、自然である

180ページ

例としてギリシアの叙事詩等で知られるヘレネを挙げ、様々な悲劇の要因となった彼女について一般的には悪く描かれているが、上記の三段論法を駆使して、人々が「そうだったかもしれない」という不確かな部分を巧みに突き、逆の結論を導き出すという弁論を展開した。「いかがわしい説得」ではあるのだが、人々が漠然と描く「ありそうな」思いに訴求し、人々の一般想念を突き詰めることで「ありそうもない」逆説に導く技術がゴルギアスが誇示する弁論技術である。

哲学は「真理」を追求するのに対し、ゴルギアスの場合は議論をありそうなものとして思考を形づくり、「真理」のように思わせた。

「欺きを作り出す者は、欺きを作り出さない者よりも、正しい人であり、欺かれた者は、欺かれない者より、知ある人である。というのは、欺きを作り出す者は、公言したことを作り為しているから正しい人であり、欺かれた者が知あるのは、感覚されない物を、言論の快さによって上手く捉えたからである」

202ページ

哲学とは根本的に異なる、まさに「法廷で勝つための真理『らしさ』」を組み上げることに徹底して取り組んでいるまさに弁論術である。

■感想・思ったこと
まさに時代や社会の変動、そして当時の法廷という社会システムが生み出した生き残るために突き詰めきった技術が弁論術であるというところが今回の章だった。ここまで読むと、これまでのソフィストに対するポジティブな思いが急降下していく。一方で、まだ先の章は読んでいないので、ここから筆者のさらなる展開によって大きく変わるのかもしれないという、これも弁論術に嵌められているのかもしれないという疑いも持ってしまうので、この後が楽しみ。

しかし、現実の世の中でも話していることややっていることよりも「売り上げ上がっているから、あの人すごい人なんですよ」「あの有名な会社の経営者ですよ!間違いないです」というどこに凄さや正当性の根拠や思考の深さを微塵も感じられない発言や、大したこともない物を大層なプレゼンテーションや音楽やらですごいように見せかけて「すごい」と思わせることが2,000年経った今でも行われている。
大事なのは結局のところ、そういった技術にしても使う側の心の善性に依拠するものなのだなというところが改めて思うところであり、そのための対話であると感じた。

■全く関係ないけど
今回の章を読んでいて「ヘレネ頌」を何と読むのかわからないなぁと思っていたときに、茶道のお稽古に行ったら、たまたま掛け軸に書いてあった文字が「雅頌」だった。先生にどう読んでどういう意味なのかをお聞きしたら「がしょうと読み、雅であることをほめたたえるポエムといった意味合いです」ということで、なるほど、ヘレネをほめたたえるという意味かと理解が深まった次第。
この偶然のタイミングのめぐり合わせ、これも弁論術で論理的に言えるのだろうか。南方曼荼羅的には根拠がある。

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