『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)‐第4章「遊びと法律」、第5章「遊びと戦争」
『ホモ・ルーデンス』の3回目。今回は、一緒に読書会を進めているメンバーが各パートを分担してまとめ、議論を行っていく。
■概要
・第4章「遊びと法律」
法などの概念の語源的基礎は「物事を定立し、確立し、指定し、蒐集し、保持し、秩序づけ、またそれを受容し、選択し、分割し、平衡に保ち、結合し、習慣づけ、確定する」にあり、遊びとは隔たっているように見えるが、訴訟などのような討論をベースとした実践の場を見ると、それは高度に競技性があり、遊びと類縁がある。
例えば裁判官が裁きを行うときに日常生活から出るために衣装や鬘を着用し、別の存在へと変化し、法廷という場に行く。そしてルールのもとで事が決まるという観念は遊びと共通する。
訴訟は競技・賭けの争いである。古代ゲルマンの例として境界決定は、力試しや賭けによる裁きで行われた。結婚も嫁取り競争に由来する。
ホイジンガは他にもオランダやエスキモー人やアラビア人などの事例を挙げ、共通していることを述べ、古代文化では裁判・運命・吉兆占い・賭博・挑戦・闘い・聖事としての神の裁きなどの観念が1つの概念領域の中で並び、接していたと述べる。
法律審理は、①権利を巡って当事者が「賭ける」②傍聴人が結果について「賭ける」という2種類の賭けがあった。訴訟における遊びの形式は「賭け」「競技」「言葉の争い」という3要素から成り、今もこの3つ目の要素は残っている。しかも「言葉」は完全に罵り合いだったが、近年までこのあたりも含めて強く残っていた。
・第5章「遊びと戦争」
闘いと遊びの概念は、融合して用いられることが多い。実際に命を失うような闘いが遊びや戯れとして行われてきた。
文化機能としての闘争の場合は、制限を加える規則があり、その前提が共有されている。戦争においても、各戦闘および各人が規定や規定の場の範囲などを認識していれば文化的機能として語ることが可能だ。
ただ、この遊びの要素は全面戦争が出てきてから失われ、文化・正義・人間性の全てが放棄されたのが現状だ。
ホイジンガは、戦争が社会の闘技的機能と呼べるのはどこまでか、という問いを立て、分類を試みている。
・不意打ち、待ち伏せ、掠奪、大規模殲滅などは、非闘技的であるため呼べない。
・異民族征服、服属、支配などといった戦争の最終目的も闘技とは異なる。闘技は両者が互いに権利などを争い合うことを認め合って行うため。
ただ、結局のところ、矜持や虚栄心、優越や支配という栄光に基づいているのが現代でも多数で、しかもそれらを神意であるとして正当化するのは古代まで遡る。つまり戦争は、神の裁決を得るための勝負の試練を受けることであり、そのためには正当なルールに基づいて行われる必要があった。一方で、本物の戦争における闘技的要素は測りにくい。戦争概念は全面的敵対関係という特殊・深刻かつ私的諍いと切り離されるときに生じ、祭儀を含めた様々な要素の複合的なものとなった。そうして戦争を名誉と美徳の遊びとする考え方の中から騎士道精神や国際法の概念、そして人間性概念が育った。
そのため、戦闘が野蛮人と行われるときは、暴力の抑制も失われ、残忍非道の行為で人類の歴史が汚される。これは現代の非人間化・深刻な道徳的無軌道な戦争における生の現実の前でも同様で、理想も否定されてしまっている。国際法などの体制も文化そのものを基礎として認めることができない状態になってしまった。
そんな状態でも闘技的衝動は失われない人間性そのものの資質である。
■わかったこと
あらゆる概念が融合して「遊び」から文化が生まれていったが、それは一定程度の「人間性」がある中での話だった。ホイジンガが言うところの「野蛮人との間」においても、超高度化した現代のただの殺戮のような戦争においても、「人間性」が無い中では、闘技的要素が喪失し、人間の「野蛮性」のみが残るというのは、とんでもない皮肉だ。
つまり技術などが過剰に発展すると、人間性が失われるということであり、これは戦争に限らず経済においても同じであるとも思う。何のための経済かという人間性が失われ、欲望の権化のみが残ると悲惨な最後になるというのは、様々な事例が示している現実だ。
この本が書かれたのが第一次世界大戦後のナチス台頭の頃(1938年)であることを考えると、ホイジンガが感じていた感覚が理解できようが、その後のさらなる破滅的技術の発達を見るに、人はさらに人間性を失った露骨な野蛮性を出していった。
戦いにおいても、社会においても、過剰な発展あるいは急速な発展は、人間性のアジャストが追いつかず、むしろ動物的な部分のみが残ってしまうということが教訓とも言える。
遊びはやはり「あそび」つまり余裕があるからこそのものであり、『論語』で孔子が「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と述べて中庸の重要性を説いたころから普遍的なものであるのだろう。
発展は否定するものではないが、人間性が保ち続けられる程度に収めつつということが果たして可能なのだろうか。
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