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蟹の話

冬になってが美味しい季節だ。

かつて私は、クオリティの高いロックを演奏する、高級ミュージッククラブで働いていたことがある。そこで私は前座としてジャズやロックを歌ったり、お客様のお話の相手をしたりお酒を作ったりしていた。お客様のタバコに火を点けるお作法はこのお店で学習した。

ここで演奏するミュージシャンは主にスタジオミュージシャンとして活動している人達で、ベストテンやトップテン、夜のヒットパレードなどの出演の他、いろんなアーティストのレコーディングに参加し、全国をコンサートで回るようなキラキラした人達だった。眩しいくらいに充実した人生を送る先輩方を目の前に、私はたくさんのことを教わり、身につけた。

ここのハウスピアニストが店のオーナーで、八神純子さんや中島みゆきさんなどのコンサートメンバーをしていた人だった。彼女はお店のオープンを機会にスタジオミュージシャンを引退しており、店には彼女を慕ったミュージシャン達がよく集まった。そして、そういう日は決まってキラキラの音に満ちた豪華なセッションとなった。

彼女の名は真千代さん(仮名)といった。
美味しいものが大好きで、お料理がとても上手だった。真千代さんはバイトで入る若手ミュージシャンや私にいつも美味しい賄いを作ってくれた。

お客様にも気まぐれにおでんを出したり、時には手の込んだ海鮮料理を出すこともあった。あまり社交的ではなく、時折口にする言葉はエスプリの利いたクスッとくるもので、彼女には音楽同様、笑いのセンスもあった。

ある日、店に行くと真千代さんが蟹と格闘していた。大きな蟹をバキバキと割って中身を取り出していた。

実は私は蟹が苦手である。

味は好きだ。とても美味しい。でも、剥くのが無理。硬いとか痛いとか、そういう以前になんか無理。剥いてくれれば食べるけど、自分で剥くなんてその工程を考えただけで脳内過労で倒れるふりができる。

そんな私の前で真千代さんが蟹を剥いている。

当時、私は何でも素敵に演奏できる真千代さんを心底尊敬していた。真千代さんのやることはとにかく何でもカッコイイし、彼女の手料理もハッとさせられる驚きに満ちていた。そんな真千代さんが蟹を剥いている。私もいつか真千代さんみたいに格好いいミュージシャン(歌手)になりたい。真千代さんみたいな静かな笑いを息を吐くように言える女になりたい。そうだ。

私も蟹を剥こう。

蟹の殻を向くのが苦手とか、剥く工程を考えただけで過労で倒れるとか言っているのはハゲか甘ったれかのどちらかだ。私はハゲでも甘ったれでもない。剥き王に、俺はなる!

私は真千代さんに近づいていった。すると真千代さんは飛び散った蟹の身を顔中につけたまま私を振り向き

「あ、のんちゃんも蟹食べる? テーブルに皿、出しておいて。みんなの分もね」

ギラギラした目で近づいた私だったが、憧れの真千代さんにミッションを託され、私は喜び勇んでテーブルに皿を並べた。

しばらくして、山のように蟹が盛られた皿がテーブルにドーンと置かれた。みんなでテーブルを囲みながら蟹を食べ始めた時だった。

「この蟹、お買い得なのよ」

真千代さんが蟹を口いっぱいに頬張りながらボソリと呟いた。
この蟹は一年中蟹を販売しているあるサイトから注文したのだが、品揃えが豊富で、安くていつも美味しい立派な蟹が送られてくるとのことだった。

真千代さんは私にサイトの詳細情報を教えてくれた。真千代さんに心酔している私は、真千代さんのようにバキバキと手際よく蟹を捌く姿に憧れ、帰宅後すぐに蟹を注文することした。

サイトを見ると、箱詰めにされた様々な蟹の写真が画面いっぱいに表示された。どの蟹がいいか吟味しながら画面をスクロールさせていると「豆蟹」と書かれた文字が目に入った。写真はなかった。説明書きには

「豆蟹は市場には出回らず、地元の漁師たちで食べてしまう蟹。お買い得なお値段で!」

と書いてあった。地元の漁師が食べる蟹! なんと素敵な響きだろう。豆蟹とはいったいどんな蟹なんだろう。どんな味がするんだろう。

好奇心でいっぱいになった私は逸る気持ちを抑えきれず、ポチリとした。真千代さんに一歩近づいた瞬間でもあった。

数日後、蟹のサイトから宅急便が届いた。弾むような気持ちで箱を見ると、送り状の品物の欄には「紅ずわい蟹」と書かれていた。あれ? おかしいな。私、豆蟹を注文したはずなのに。不思議に思いながら箱を開けると、少し小ぶりのずわい蟹が6杯入っていた。うーん、これはこれで食べられるけど、私は「豆蟹」が食べたかったんだよなー。

その話を真千代さんにすると「すぐ電話したほうがいい」と言うので、サイトに書かれた電話番号に電話をしてみた。電話口は賑やかで、電話に出た女性はとても忙しそうだった。

「あの、豆蟹を注文したんですけど…、紅ずわい蟹が来ちゃって…」

「ああー! すみません! すぐに送り直しますから、送ったものは食べちゃってくださーい!」

ガチャン! と電話は切れてしまった。
実は私は、もしかして豆蟹とは小ぶりの紅ずわい蟹を指すのではないかと思い、それを聞こうと思っていたのだが、先方に「送り直す」と元気よく返されてしまい、そこで電話は切れてしまったのだった。

うーん、それずわい蟹のことですよって言われなかったから、やっぱり豆蟹とは別物なんだな。私は改めて豆蟹が到着する日を待った。

2日後、蟹屋さんから宅急便が届いた。ワクワクしながら送り状に書かれた品物欄を確認する。すると

紅ずわい蟹

とまたしても豆蟹でない商品が届いてしまった。箱を開ける。すると箱には、やはり小ぶりな紅ずわい蟹が4杯、そしてそれより一回り大きい紅ずわい蟹が1杯、合計で5杯の蟹が入れられていた。

あれー、また間違ってるよ。

現在、私の家には合計で11杯の蟹が届いていた。自分の元にこんなに蟹が集まってしまって途方にくれるしかなかった。でも、なぜ注文した豆蟹が届かないのだろう。私はもう一度、蟹屋さんに電話をすることにした。

「あの、豆蟹を注文したんですけど、紅ずわい蟹が届いちゃって。もs…」

「ああー! すみませーん! 送り直しますから、それ食べちゃってください!」

デジャヴュだろうか。
私は電話が切られる前に「もしかして豆蟹って…」と言いかけたのだが、電話口の女性は電話の向こうで誰かと忙しそうに会話しながら電話を切ってしまった。

もしかして、やっぱりもしかして、豆蟹というのは小さいサイズの紅ずわい蟹のことなのではないだろうか。ネットで検索してもそのようなことは書かれておらず、豆蟹と紅ずわい蟹との関係はわからない。

その2日後、蟹屋さんから宅急便が届いた。少し不安な気持ちで送り状を見る。品書きの欄には

紅ずわい蟹

と書かれていた。うそでしょ…。こんなに同じことって繰り返されるの…? 呆然となって箱を開けると、箱の中には6杯の紅ずわい蟹が詰められていた。

そして私は悟った。
豆蟹なんてこの世には存在しない。漁から帰ってきた漁師が美味そうに食べているのは豆蟹なんかじゃない。ずわい蟹だ。きっと豆蟹はプロの間で紅ずわい蟹を指す隠語なのだ。ほら、私達だって寿司をシースーと言ったりツアーの仕事をビータと言ったりするではないか。ビータ、あご脚付きオクターブ、とか言ったりするではないか。ちなみに「医者のおっさん」は「しゃーいーのさんおつ」と言うが、まだ逆さま民の言葉がわかっていたなかった頃におじさんのことを「さじおん」と言って、ミュージシャンから「それはどこの怪獣だ」と返されたことがある。

斯くして私は、届いた蟹を消費するために、泣きながら蟹を剥き続けたのである。

その後、真千代さんの蟹ブームは去り、私も真千代さんの蟹パートの側面については見ていなかったことにしたのだった。

#飛び散った蟹の身を #数日後に観葉植物の葉の上に発見 #泣きながら剥いた蟹は #グラタンとかバターソテーとかピラフとか #洋風料理で乗り切りました


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