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日本から脱出した理由

9年前に娘を連れて、日本からドバイに引越しました。その理由を書いてみようと思います。

人と同じことができない

私は、幼いころから人と同じことをするのが苦手だっとように思います。小学校の成績表には”創意工夫に優れ”といつも書かれてましたが、これは流れに添えない状況を担任の先生が上手い言葉に置き換えていたのだと思います。今も人付き合いが下手で、人の言うことに同調できません。なにか気に入ると、ついプロの域に到達するまで突き進んでいます。


満洲で出会った祖父母

私は、祖父母と同居する6人家族で育ちました。祖父は医者になる夢を諦め、祖母は大きな材木屋の長女でした、がふたりとも革新的精神を持って海を渡り満洲へ働きに出たようです。”人と同じことしていてはだめだ”と口癖のように言っていた祖父は、努力家で満洲鉄道で金時計を持つほどの重役を務め、電話交換手だった祖母と出会い結婚しました。

日本へ引き上げた後、祖父に見合う職場が見つからず仕方なく踏切番の小さな仕事に就きました。当時は、電車が近くたびに手動で板を上げていました。祖父は、満鉄にいるときに誰がどの仕事しているかをよく観察し、自分がどの仕事でも交代できるように熟知して重役に上り詰めました。

事故などで電車が遅れると今はコンピュータで簡単にダイヤグラムが作れますが、当時は手で線を引いてダイヤを作っていたため運転を再開するのにとても時間がかかりました。祖父がダイヤグラムを作れることを会社が聞きつけ、祖父は踏切番からあれよあれよという間に駅長になりました。

踏切

私は、祖父から勉強、かけっこ、水泳、キャッチボール、そろばんなどたくさんのことを教わり、50m走は6秒台、ソフトボールは中1入部した時から背番号18番ピッチャー、いくらでも泳げてスポーツ万能でした。星飛雄馬親子のように、勝てないと真っ暗になるまで猛特訓で一番目指して努力することを教わりました。

祖母は、材木屋の長女だけあって田舎料理ですがとても上手でした。昔は、家の建前(棟上式)の際にはお餅を撒いたりたくさんの料理を作って無事に建物が完成することを祈願したものです。満洲の生活では、ロシア人からボルシチやホワイトシチューなどハイカラ料理も習ったそうで、祖母は中国語もロシア語も話せました。私のドバイ生活も、気づけば同じことをしていてほくそ笑んでしまいます。私が日本を離れたのは、満洲で頑張ってきた祖父母の血を受け継いだのかもしれません。


11歳で逃したスキー留学のチャンス

私は、3歳からスキー学校に預けられ英才教育されました。小学1年生からは毎年、杉山進スキースクール(皇室の雅子さまと愛子さまが行かれてる)で習い、小学二年生で草大会の回転競技で大人も含めた中でラップタイムをとったのをきっかけに競技スキーも始め、回転競技のタイムを競うSIAメダル検定は10歳で最年少シルバーメダリスト、草大会ですがどれも出れば優勝、リフト営業時間中ずっと昼食もそこそこに滑り疲労でゲレンデで意識を失い倒れたこともありました。毎年12月と3月の学校の終業式、1月の始業式もスキースクールにいました。

スキー

絶頂期の11歳の時、オーストリアのサンクリストフ国立スキー学校の故フランツ・ホッピヒラー教授(元オーストリア・ナショナルスキーチーム監督)から留学の誘いを受けました。私は、迷いに迷って断ってしまったことを長年後悔してきました。あのとき一歩踏み出せていたら、もちろん全然違う人生です。スキー留学を選んでいたら娘に会えなかったので、結果オーライです。娘には、言葉の壁を乗り越えて自由に生きて欲しいと強く思ったのもドバイに来た理由のひとつです。

スキーは体幹のスポーツ、このスクールの先生は最高です。

母の重圧から娘を守りたかった

”毒母”というそうですが、私の母(現在83歳)が娘を支配しようとしていました。ありがたいことに、娘はバーバだから仕方ないと優しく、ひとりで母の家に泊まりに行ったりしてくれました。母の仕打ちがエスカレートしたら守りきれないかもしれない、母と私が断絶する恐れもありました。

今は娘も19歳、母の言葉をうまく交わせるようになりました。母は、年に3回も4回も訪れるほどフランスが好きでいつかパリに住みたいとフランス語を何年も習っていました。娘が高校3年間フランス留学し、ガイドができるぐらいフランスをよく知る母に娘が質問を投げかけると、母は嬉しくて話が止まらないくらいです。私たち家族は、日本を離れて良い関係が築けたようです。娘の学校の先生が、母と電話でフランス語を話して下さることもありました。母は、何度もその時の話をします。83歳でようやく使えたフランス語を自慢していました。そんな母を、私も娘も偉いなぁと思うのです。


東北大震災後で日本はどん底だった

震災の年の12月からお正月までを娘とふたりでドバイに旅行し、その発展ぶりに驚きました。ものすごいパワーです。私が初めてドバイに来たのは1995年で、長閑でゆったりとしていて走っても走っても砂漠、美しい海を前に飲むフレッシュジューズ、日本の1/4プライスのシャネルなどサイズが超ビッグ、レバノン料理が数百円で男子5〜6人で食べきれなかったという記憶です。

日本では、個人が放射能測定器を買い、それが反応しただのどうのと神経質になっていました。街中には癒し系のお店が増え、安い施術、安いものに飛びつく日本人に嫌気がさしていました。安物買いの銭失いと言いますが、”今”しか見ていない人が多いように感じます。その考え方が、まさにコロナを脅威に思わせているのです。話が脱線してしまうので、この続きは改めて書きましょう。


書き留めたこと

この旅行中に多くの日本人に会いました。日本人施術者がひとりもいないと聞いて、一番乗りすると決めたのです。

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旅行から戻ったタイミングで、たまたま広告代理店時代の先輩がFacebookに載せた記事が私の背中を押してくれました。人生を180度変えるぐらい大きな決断です。記事をノートに書き写し、何度も何度も読んでは私のやろうとしていることは間違えてないと確認しました。そしてサロンを閉めてドバイに出発したのです。

情報は読んで納得ではなく、自分が何かを達成するために一歩ずつ踏み出すのに必要なもので、ドロドロにならないための踏み石みたいなものでしょうか。そして、私は”世界でひとつだけの花”を目指したのです。うまく行かなければ一年で帰るかもしれないと思って来ましたが、1年超え、2年超え、10年目に入って、今も中東で一匹狼です。ドバイは人種の坩堝、世界80カ国以上のクライアントの体の情報は、私だけの宝物になりました。


関節の可動域が十分にとれて、体が開いている人は明るい方向を選びます。パワーが大好きで、自ら近づいていきますます元気になります。この法則で当たり前のように私にドバイ にやってきたのでしょう。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。





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