見出し画像

ディープラーニングとブリコラージュから見る人間の創造性(インターン生日記①トミー)


こんにちは、学生インターンの爆音のトミーです!           さっそく、大げさなタイトルぶちかましましたね。

画像1

先日、人工知能の入門として、東京大学の松尾豊先生の『人工知能は人間を超えるか』を読みました。また、CEOの山元さんよりAIに関する講義をいただきました。

今回はそれらの中で出てきた、「シンボルグラウンディング問題」とそれを一部解決したディープラーニング、そして最近本で読んだレヴィ=ストロースにヒントを得ながら、コンピュータ人間の創造性について思ったことを。

※長いので、AIに詳しい皆々様は目次より、「コンピュータは世界をダイレクトに見ようとしている」から見ていただければ。


シンボルグラウンディング問題とは

シンボルグラウンディング問題は先ほどの松尾先生の著書では、

記号(文字列、言葉)をそれが意味するものと結びつけられるかどうかを問うものである。コンピュータは記号の「意味」がわかっていないので、記号をその意味するものと結びつけることができない。

と、紹介されています。


「うん、いまいちわからん笑」


国語の授業で出てきた?ソシュール大先生のお言葉を借りれば、

コンピュータはシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の結合・接地(grounding)ができない。


「まぁだいだい理解したような気がする…笑」


コンピュータには身体性(外部世界との関係)がなく、シニフィエを真に把握することはできないということです。

「リンゴ」についての様々な特徴を人間が記述して教えることはできても、人間の解釈を通してしまっているからシニフィエを真に把握したことにはならない、ということでしょうか。

そして、これを一部解決したのが、ディープラーニング(DL)です。


特徴量の自力獲得

松尾先生は従来の機械学習の限界・シンボルグラウンディング問題の原因についてこのように述べています。

いままで人工知能が実現しなかったのは、「世界からどの特徴に注目して情報を取り出すべきか」に関して人間の手を借りなければならなかったからだ。

そして、この問題を解決したのがディープラーニング(DL)でした。

コンピュータがインプットのデータから自ら特徴量を抽出することで、自ら概念を獲得する。(シニフィエの獲得)

つまり、DLによって自らシニフィエを獲得し、そこに人間がシニフィアンを与えることで、シンボルグラウンディング問題は解決されます。


コンピュータは世界をダイレクトにみようとしている(本題)


画期的であったディープラーニングですが、これを考える上でブリコラージュとの関連を考慮に入れると面白いと思いました。

先ほどでてきたソシュールの考えを一部受け継いだのがレヴィ=ストロースです。そして彼が示した例えがブリコラージュでした。

ブリコラージュについて『レヴィ=ストロース入門』では、以下のように説明されています。

ブリコラージュは、…(中略)... 限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。
本来の目的や用途とは無関係に集められたものであるため、ブリコルール( ブリコラージュする人)は、それらの形や素材などのさまざまなレヴェルでの細かい差異を利用して、本来の目的や用途とは別の目的や用途のために流用することになる。

小学生の美術の時間に、校庭で拾った落ち葉や、チラシの切れ端などを張り付けて一つの作品を創るということをしませんでしたか? あれ、ブリコラージュの一つなんだと思います。

ブリコラージュを理解するうえで、対比としておさえる必要があるのが、「近代科学」です。その具体例としてはジグソーパズルのピースがあります。

パズルのピースは、本来収まるべき位置に収まった瞬間に周囲のピースとの境界線は消えピースそれ自体の個性を失います。ブリコラージュにおける全体の中の部分(一つの作品の中の落ち葉)が、作者が個々のパーツの差異を認識しているがゆえに様々な潜在的用途を残していることとは異なります。


「ほんで、ディープラーニングとブリコラージュになんの関係が?」


僕の結論は、


「DLでコンピュータがを獲得→一次情報の一部獲得(ダイレクトに世界を見る)→(コンピュータ自らが目的に合わせて持ち合わせの情報を処理するため)ブリコラージュ的思考の”可能性”


DL以前の、AIと呼ばれるもの(または昔は呼ばれていたもの)において、AIへのインプットには人間の手が介在していました。定義やルールを一つ一つ記述したり、注目すべき特徴量を与えたり、といった具合です。

ここでは、ある事物について特定の目的に応じたことのみを記述することで、インプットに人間の解釈が介入し、間接的になっていました。

例えば、「あらゆる画像から葉っぱを検出するAI」を創るとして、「色、大きさ、形」等について記述したりする必要はあるが、「におい、柔らかさ」といった特徴は必要だろうか?                  ここでは、「画像から葉っぱを検出する」という目的のために効率的なインプットを行うため、「においとか柔らかさとか関係ないっしょ」という人間の解釈を入れざるを得ない。

一方で、ディープラーニングはどうでしょうか。

コンピュータに与えるインプットそれ自体には人間の解釈は入らず(もちろん与えるデータの選別段階で意図が介在することはあるが)、純度の高いインプットが可能です。コンピュータが世界をダイレクトにみることができます。

ダイレクトに見た世界からコンピュータが目的に合わせて自ら特徴量抽出を行い(どの特徴にまたは特徴の組み合わせに着目し、重みをつけるか)、 シニフィエを獲得します。

画像分類でいえば、従来、「森の画像である」と判定するのに人間が定義した「画像のRGBに占めるG(グリーン)の割合」という特徴が、DLで人間の解釈を通さないことで、人間では想像もつかない、何か別の判断の根拠に使われてるかもしれない。人間が画一的な意味しか見出さなかった「Gの割合」という特徴に対し、「潜在的な用途」をとらえることに成功しているかもしれない。これは、従来の「AI」と比較してブリコラージュ的になっているように感じます。

そして、「判断根拠が複雑なDL等に解釈性を与えよう」という、いわば「神秘」に挑む corpy XAI技術にも大注目!


終わりに


「でもなんでDLとブリコラージュに関係が…?」

そんな声が聞こえてきそうですが、自分としてはある種必然なのではと思います。

なぜなら、レヴィ=ストロースはブリコラージュを(近代科学と比較して)普遍的な人間の営みと考えていた一方で、AI研究は人間の脳を再現する技術的発展の歴史(より抽象度が高まる:普遍性を持つ)と位置付けることができ、その最先端であるディープラーニングが重ならないはずがないと思います。


そして、DLの登場とビジネスにおけるアートへの注目も納得がいきます。

DLによってコンピュータが「目」を獲得し、ダイレクトに・フラットに世界を見ようとしている一方、人間はPCを眺めて二次情報を追い続ける。

自らが一次情報として、五感を使ってダイレクトに感じた世界を表現するのが、絵を描いたり、工作したり、曲にしたりといったアートなのだとしたら、

人間はアートから離れて、ダイレクトに・フラットに世界を見ることを忘れれば、一つのモノのあらゆる可能性(潜在的用途)を放棄し、目的とモノが一対一対応の世界となり、創造性もへったくれもなくなるのかもです。

特に創造性を求められる抽象的な活動をする人こそ、具体の世界の個々の差異に対して敏感になり、モノの多面性を理解する必要があるということでしょうか。

偉そうなこと言いましたが、普段からアートなんてしてないし色眼鏡で世界を見まくりですよ。

コロナでバンド(大学のサークル活動)できてないけど、自分でできるアートを探そっかな。探検隊になるくらい。


そういえば「あるある探検隊」って元気してるかな。


クサいなこの終わり方。

草。 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?