父性のデザインと母性のデザイン

※本稿は2019年1月3日にMediumに寄稿したコラムを転載したものです。

今年は少しまとまった文章を書く素晴らしい機会を与えられ、新年から浅学なりに改めて自分が関わっている領域のデザインについて向き合い直しています。本稿は、まとまらないながらもそういった自身との対話の中で気づいたことを共有したいという思いで書きました。雑文・駄文のお目汚しをお許しください。

人間中心デザイン、ユーザー中心デザイン、ユーザーエクスペリエンスデザイン、サービスデザインと、デザイン実務家として約20年あまり現場の仕事に向き合う中で自身が手がけるデザイン領域を端的に(そして世間的に)表現する、(誤解を恐れずにいうと)ある意味”デザインジャンル”をあらわす言葉は変化すれども、片方で一貫して軸足にしていることは、形あるものであるにせよ、形のないものであるにせよ何かしらの製品やサービス、経験において「ユーザー(※)にとって、そのデザインがもたらすことは有益か?」という問いであったのかもしれません。

(※ここでは本来”ユーザー”ではなく”デザインの受容者”と表現したほうが本稿の意味的には適切であるかもしれませんが、ここではあえて”ユーザー”と表現したいと思います。)

ユーザーにとって有益なデザインを行うことがデザイン実務家として当然のことであり最も重要な原理であり、と信じていました。そう、4〜5年前までは。

『ユーザーにとって迷わず、快適に、失敗することなく、使いやすくデザインされている』

ことを念頭に置きながら、”ユーザー”のニーズを探索し、お節介なくらいに理解しようと努力し、”ユーザー”がそうあって欲しいと言えなかったものまで忖度して眼の前に差し出してあげることがすべてだと信じていたけれど、それはひょっとしたら”ユーザー”をアホにしてしまうことなのかもしれない、と疑問を持ち始めたのが4〜5年前です。

そのきっかけは、その頃から、

『まだないものをつくりたい、考えたい』
というテーマの仕事が急激に増え始めたことでした。

それまでの20年近く、ぼくらは『”ユーザー”にとっての問題や課題をどう解決してあげるべきか?』、『”ユーザー”をどうしてあげれば不満やストレスがなくなるのか?』ばかりを考えていればある意味よかったわけです。なぜなら世の中の製品やサービスはまだまだ改良・改善する余地が少なくはなかったからです。特にこの10年で急激にデザインすべき対象として増えた、Webサイトやスマホアプリをはじめとするデジタルインタフェースをもったプロダクトやサービスに関しては尚更でした。

ところが、この数年でいろいろなモノやサービスは洗練され、比較的良くできたものに合わせて(倣って?)平準化され、”だいたいいい感じ”になってしまいました。

だいたいのものが、だいたい良くなると差別化できなくなるし、ちょっとした工夫や改善では競合優位性がもてないので、一部の企業はまだ競合が存在していない、『まだないもの』をなんとかつくれないか?必死に考え始めるようになった、ことが背景にあるのではないかと思います。

つまり、この20年ぼくらが常に中心においてきた”ユーザー”が存在しないものをデザインしないといけない状況になってきているということです。

じゃあ、どうやるか?という姿勢と視点、そして具体的な手法論についてはここでは書きませんが、まぁ一言で言うとすっごい苦労しているわけです(笑。ただ、過去10数年もってきた視点と視座を意識的にぐるりと変えて悩みながらデザインと向き合ってきたことで、ひとつ気づいたことがあります。

それは、『まだないもの』をデザインするという姿勢はとても父性的である、ということです。

ミラノ工科大学の経営工学研究所で教鞭をとるロベルト・ベルガンティ教授が書かれた『突破するデザイン』(原題『Overcrowded』2017)のまえがきで、

”生活とはソリューションでなく、贈り物である。”
”私は3人の子どもに恵まれた。彼らが生まれたとき、「歩く問題とニーズ」をこの世に送り出したつもりはない。(中略)そして彼らに人生という贈り物をあげたいと思っている”
(以上、「突破するデザイン」 R.ベルガンティ 2017)

と記しています。

ひょっとしたら我が子はそれを最初は上手く使えないかもしれないし、最初は欲しがらないかもしれない。ひょっとしたら短期的にはもっと刺激的で分かりやすい面白そうなものを欲しがるかもしれないけれども、長期的に見て我が子の将来の成長にとって意味と価値をもつものをどれだけ意志と想いを込めた「贈り物」として贈ってあげられるか?

それには、我が子が欲しがるものを与えるのではなく、我が子にこうあって欲しいという想いを込めて俯瞰的な視点で与えるべきものを与える、という強い愛と意志が必要になるので、しんどいんです。なぜなら、子どもは親の考えをすぐにわかってくれないかもしれないので、嫌がられたり、疎ましく思われたりするかもしれないから(笑。しかし、長期的にみて意味と価値をもつものを、大変な勇気をもって贈るべき場合もあるのではないか?ということです。

ここで、上述文中の”我が子”を”ユーザー”や”生活者”に置き換えてみるとどうでしょう?

問題や課題がたくさんあって、それを取り除いてあげることで我が子が怪我をすることなく、よちよち歩きを安全に楽しくできるような状況では母のような優しさで我が子を包み込み、すぐそばに寄り添って我が子の喜びや苦労を共有してあげることが愛かもしれない。

片方で、いま特に問題があるわけではないけれど、自分自身が成長するために「新たな課題や問い」を見つける苦しみと向き合う際には、父のような優しさで我が子が自身で道を見つける葛藤を伴う旅において、ときには反発されることをも恐れず、大きな視点でほんのりとした灯りを照らすことで、少し離れた場所で我が子の成長を見守るいう愛の形もあるのではないかと、正解のないデザインに向き合うこの数年間感じています。

ここで誤解してはいけないことは、デザインにおける母性と父性のどちらかがより重要である、ということではないということです。

母性と父性はひとりの人間の中に常に共存しています。

その時々で、自身の母性と父性のバランスをとりながら我が子の将来を真剣に考えて最大の愛を注ごうと努力するように、デザインにおいても取り組むべきテーマについての意味と価値をより深く、広い視点で見つめ直し、何をすべきなのか?を意志をもって考え抜き続ける一年にしたいと思います。

2019 新年

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