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たわごと #004 多様性の推進による人とコンテンツの一様化と差別思想への差別

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昔、実家に居た頃にTVでアニメを見ていると、まーた、おんなじものを見て、一回見たんだから今日はもうやめなさい!と。
いやいや、先週見たのは第1話で、今見ているのは第2話なんだって。

そんな訴えも右から左へ抜けていき、強制的に母にチャンネルを変えられてしまった。日曜夕方午後17:00。

こうして大人になってみれば、世の中同じことを繰り返しているのだと気付かされる。流行り廃り。就職してみれば、人生の先輩達も口を揃えて同じ話しかしない。大学時代はどんだけ遊んだだとか、安い居酒屋探して飲み歩いただとか。有給をとってみれば、誰もが行っている観光地を案内され、業務をやっていれば、昔は大変だった、君たちの世代は恵まれているだとか。

このように同じことを/誰かがもう経験したことを、僕が僕の人生で経験することになるという生産性も情緒も新規性もなにもない、取るに足らない経験しかこの世にはないのではないかという非認知的な絶望感が、そこにはある。

翻って、あの日チャンネルを強制的に変えた母の目には、長い人生の中で繰り返されるコンテンツの消費にしか映らなかったのでろうことは、容易に想像がつく。

なんと一様的なことか。


さて。
多様化、ダイバーシティが叫ばれる世の中で、皆アイデンティティとキャラ付けに必死で、多様的(個性的)であろうと振る舞っている。髪を染め、エキセントリックな曲を聴き、教師には反骨精神で、上司には奴隷根性で対応する。誰もが個性を主張した結果、誰もが似た特性を得てしまう。皮肉なことに、黒髪が可愛くないとのたまう女子は、個性だなんだと言って全員茶髪になり(過言)、一様化してしまう。見切り発車でブログ記事を執筆しているブロガーはPV稼ぎに、誰もが通ってきた題材を浅い知識で表層だけなぞって投稿し、俺は他のやつとは違うと一様に言う。

youtubeも10年前は(記憶が定かではないが)、youtuberなどという言葉もなく、ガジェット・商品レビューをしている人なんて稀有だった。多様化が叫ばれる以前の方が多様なコンテンツがあった。
それから伸びるコンテンツ・再生されるコンテンツには大体傾向があるので、新規参入者は皆一様に商品レビューコンテンツを作り始めた。
さぞかし好きなことで生きているのだろう。
不思議なことにその好きなことが多くの新規参入者で一致してしまうのだが。

オープンになるほど多様性は減っていく(瀬戸弘司)。


ただ、多様化という概念は何でも許容してくれるわけではない。

それは差別である。
他人を差別したいという主義も多様的であるが、敬虔な反差別主義者はこれを許さない。
反差別主義者は差別主義を差別しているのである。

そしてそれはいわゆるフェミニストもそうである。
もちろんそういった人間はフェミニストの中でも一部だということは重々承知だが、なにせ印象が悪い。
女性は冷遇されているのうそぶく一方で、女性専用車両、女性限定割引、課長職では社員の男女比に関係なく女性のみ一定割合以上の昇進必須……。現代においては男性の方が冷遇されている。
だと言うのに、平等ではなく、優遇されたい優位に立ちたい欲求が先へ先へ行くのである。

これは完全に私見が入っているが、フェミニストなんてそんなもんですよと。

僕個人で言えば、差別主義者も反差別主義者も、有神論者も無神論者も、ファシストだろうと人殺しだろうとフェミニストだろうと、老若男女だれでも許容するという思想を持っているので、そのようなことはどうでもいいと思っている。

要するに僕は全てに無関心である。
そして、もっと世の中はカオスになればいいのにと。

なんか面白いことないかなー、と言っている人が周りにちらほらいるけども。コロナが広まったことで、とんでもなく今世の中は面白いことになっているということになぜ気づけないのか。マスクマンや正義マンが自己中を振りかざし、北海道では熊や全裸男が出没し、日本企業はズタボロだと言うのに。


実にカオスな1年だった。
来年もまたカオスな一年になってくれることを祈りはしないけど。
そうなるようふわふわとがんばりますか。

このテキストの結論?
そんなものはありませんよ。
だって、これは議題であって、議論ではないのだから。


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