もう会えない人と、永遠と

その昔、KöoK(クーク)という日本人アーティストが居た。EMIから一度メジャーデビューした後、2000年にEPICレコードから再デビューした彼の楽曲を聴いたことのある人はそう多くはないだろう。退廃的で耽美なグラムロックを全て宅録で作り上げる彼の音楽性は、その歌声も相まって「ひとりsuede」「suedeクローン」と揶揄されるほどsuedeそのものだったが、どう聴いても日本語には聴こえない歌い方と、中性的(って表現最近しないな)で繊細でミステリアスな本人の魅力もあり、当時の音楽シーンで異彩を放っていた。というか今も居ないなそんな人。

(KöoKのCDジャケット。同時リリースのシングルとフルアルバム)

私がKöoKを知ったのはテレビ東京「JAPAN COUNTDOWN」のエンディングテーマにEPICからのメジャーデビューシングル「JUNK」が使われていたこと(写真の緑ジャケ)。一聴してなんじゃこりゃあああとなり、一瞬で虜になった。Wikipediaによると2000年2月のことだったらしい(便利な世の中)。

もう一曲、「Lady lay」というタイトルのマキシシングルと2枚同時リリース(同時リリースというワードが既にエモい)で、アートワークも洒落てて、ルックスもどストライク(当時15歳の私は厨二病全盛期、好きなタイプはCASCADEのTAMAちゃんとT.M.Revolution西川さんという細身のV系、同級生のギャル男風の男子は全員キモイと思っていた…)でいきなり超超大好きになった。どうでもいいけど私は中学の制服の名札に西川って書いて職員室に呼び出されたことがある。

福岡に住む高校生だった私はそう簡単に東京のライブに行けるわけもなく(というかライブやってたのか不明)、さらにメディア露出も少なかった彼の姿を拝めるのは、インターネット(ネットではなくインターネット、何ならイントラネットとすら言いたい)のファンサイトの掲示板で知り合った関東在住の人に頼んで、VHSに録画して送ってもらった深夜の音楽番組くらいのものだった。(初めて見た動くKöoKは「最初は画家になろうとしていたんだけど、ある日生命線が短いと言われて、ギターを握るようになったら生命線が長くなった」みたいなことボソボソ言ってたなぁ…不思議ちゃんかよかわいいな)

ファンサイトには時々ご本人も登場というか降臨していて、洋楽に疎かった私が「今日CDショップでsuedeを試聴したらKöoKさんに似ていてビックリしました!!」的なことを書いたとき、ご本人から「ありがとう、僕はsuedeが大好きなのだよ」的なレスを頂戴したことを覚えている。

話が前後するけど、とにかくこの「JUNK」という楽曲がめっちゃくちゃに好きで、ずーっと好きで、大人になるまでは「自分の葬式でかけたい」「自分が死ぬとき聴きたい」とかほざいていた程、バイブル的な一曲だった。気軽に死を口にしちゃう季節、イッツア思春期。

その後、KöoKはアルバムを一枚リリースしたあとパタリと音沙汰がなくなったのだが、一年半ほど経ったある日、突如Blankey Jet Cityのベースの照ちゃんこと照井さんとCARNE(カルネ)というユニットを組んで再び、いや三たび現れたのである。意外すぎる組み合わせなんだけど、もともとブランキーが好きだった私は「運命!!!!!!!!」とか思ったりもして。ちなみにCARNEの楽曲もまさにブランキー+KöoKって感じで凄く好きだったなぁ。

その後また彼の活動は無くなってしまい、私も高校を卒業したあとバンドを組んだりして、音楽の嗜好も変わってKöoKのことを忘れかけていた頃、よたび!彼はenamel the evening callsというユニットで復活しているという情報が。元気そうで何より…と思いつつも、一度だけ出演したというライブも観ることは叶わず、以来とうとう彼の名前を聞くことはなくなってしまった。

その後私はひょんなご縁(いつかそれも書く)で東京に移り住み、ソニーミュージックで働くことになるのだが、その間もたびたび思い出しては今どうしてるかなぁ…と思いを馳せたり、ググってみたり(昔はYahoo!トップから検索してたのに!)、モヤモヤしながらもだらだらと時が流れていった。

そしてソニーに入って数年後、私は異動でEPICレコードに勤務することになった。そう、あの!KöoKが再デビューしたあの!EPICなのだが、そのときはすっかり忘れていた。

私がエピックに入って間もなく上司になったZさん(仮名)という男性がいた。
年は10以上離れていたけど、「最近おすすめのアーティスト教えてよ、ライブ観に行こうよ」とか(新人発掘の意味で)、勤務中に突然「腹減った!○○ちゃん(私)飯行こ〜!!」と気軽に誘ってくれたり、友達のような感覚で付き合える、好きな類の人だった。

感情がわかりやすく顔に出る人で、楽しいときはガッハッハ〜という効果音が見えそうなくらい豪快に笑っていたり(すぐ思い出せる顔はその印象)、機嫌の悪いときはあからさまに体じゅうがムスッとしているので、その背中を見てあ、今声かけるのやめとこ〜とか思ったりしたものだ。

Zさんと仲良くなってしばらく経ったある日、何年かに一度訪れる“ふとKöoKを思い出して聴いちゃう”ターンに入っていた私が、

「そういえば、私10代のときKöoKってアーティストが大好きで、エピックからデビューしてたんですけどZさんも知らないですよね〜」と何気なく話したら

「え! 担当してたの俺だよ!!」

と言ったのだ。

思わず私は絶句したあと、会社のフロア中に響き渡るくらいデカい声で

「ええええええええええええ!!!!!!!!」

と叫んだ。気がする。

KöoKのデビューが2000年。Zさんとその会話をしたのは2012年辺り。12年後にこんな事が起きるなんて! 15歳の私が聞いたらひっくり返るだろう。そもそもレコード会社で働くことすら全く予想していなかった。

Zさんは続けて「いや〜、まさか知ってる人が居たとはね! 当時の社長に “すんごい変なアーティストを見つけたのよ、俺は大好きなんだけど売れるかどうかわかりません、でもやりたい” と言ったら ”俺はようわからんけどお前がやりたいならやれ” って言われてね〜、しかし売れなかったね〜」とニヤニヤしながら言っていた(あくまで私の記憶なのでニュアンスや言葉に誤差多々あり)。私は"なんて貴重な証言…!"と興奮して話を聞きながら、このときもやはり「運命!!!!!!!!!」と心の中で呟いていた。

なぜ今更このことを書いたかといえば、ここのところwithコロナ生活で未来が見えず心の防衛本能が働いているせいか、自分と向き合う時間が増えたからなのか、回顧モード気味な私は、昔好きだった曲を頻繁に聴き直すようになっていた。
その中でもKöoKは特別で、何度も聴くうちにまた活動していないかな〜と懲りずにググりまくったのだが、20年前はたくさんヒットしていたKöoKの情報が、長年蓄積された膨大な情報量に埋もれたインターネットの海の中ではほとんどが404 not found状態で、彼の形跡はわずかな2ちゃんねるのスレッドと誰かが書いたブログくらいになっていた。検索結果の2ページ目には全く関係ない情報が出てきてしまうほどに。

2000年代、ことSNSが登場してからは尚更、ググって出てこないものは存在しないと同然になってしまう昨今。KöoKというアーティストが確かに存在したことを、今もその音楽が誰かを励まし、息づいていることを、いつか誰かの目に留まるよう残しておきたい。そう思うと居てもたってもいられなくなったのだ。


と、この投稿はこの辺りで締める予定だったのだけど、書いている途中に、実はZさんの名前をど忘れしてしまい(あんなにお世話になったのに!)、ど〜しても思い出したくて、投稿を完了する前に、当時同僚だった友人にLINEで尋ねてみた。


私「エピックでさ、病気で長いこと会社休んでて戻ってきた人の名前覚えてる?」

友人「Zさんだよねえ?」

私「そうだZさんだ! 解決した! ありがとー」

ここでやり取りを終えようとしたら、予期せぬ返事が。

友人「亡くなっちゃったんだよ、5年くらい前に。病気かなんかで」


……突然すぎる訃報。亡くなるとは、もう二度と会えないということ……、でもこの目で確かめたわけじゃないし、真実なのだろうか、けれど確かめたら真実になってしまう気がして、とか、頭がバグり気味になりながら、手のひらの中でぼんやり光る文字の羅列、を信じることができないまま、

え、、、 と、力なく、声がこぼれた。

しばらく涙が止まらなかった。


Zさんは、随分前からエピックに居たけれど、あるとき体を壊して数年間会社を休んでいた、というのは私が入社したときに聞いた話だ。当時はその病から復帰したばかりだったので、Zさんがいつからエピックにいたのか、どんな仕事をしていたとか全く知らなかったのだ。本来A&R(アーティストの宣伝や制作全般を行なう役割)の最前線でバリバリやっていた人なのだけど、病み上がりで仕事量をセーブしていたのか、私のような平平のお世話をしてくれていたのだと思う。

私は病気のことも詳しく知らなかったけど「ホント死ぬ寸前だったんだから!今生きてるのが不思議でしょうがない!」と本人が言っていたり、当時の社長のKさん(Zさんと旧知の仲)も「アイツはほんま不死身やからな〜」とか、周りの社員もみんな「奇跡だ、不死鳥だ」みたいなことを言っていたのを覚えている。でも私の目の前にいるZさんは、そんなことは微塵も感じさせず、いつもめちゃくちゃ元気だった。10歳以上年下の私よりよっぽどに。だからわざわざ、病気のことを知ろうともしなかったのだ。
いつも全力で笑ったり、怒ったり、しゅんとしたりしていたZさんは、なんだか憎めない素敵な人だった。

あんなに生命力に溢れていたZさんが、また病に倒れてしまったこと。そして亡くなってしまったこと。それを自分が知らなかったこと。名前も思い出せなかったこと。色々なことがショックだった。

いつまで生きていたんだろう。この世を去るとき、何を思ったのだろう。また会いたかったのに、今だからこそしたい話がたくさんあったのになあ……。

この投稿の最初の写真は、その会話のあとに慌ててCD棚から引っ張り出して撮影したものだ。当時、Zさんと会話したあとにブックレットのクレジットを探したのだけど、シングルにはスタッフリストが入ってなくて、本当に担当してたのかな〜と半信半疑な部分もあったけれど、改めて今回、アルバムの方も確認したら、ど真ん中にその名前が記されていた。Kさんの名前もまた、エグゼクティブ・プロデューサーとして印字されていた。

15歳の頃には全く知らなかったその名前を、大人になってから普通に呼んだり、その人と一緒にごはんを食べたり笑ったりしているなんて。そしてその次に名前を思い出したとき、もうその人が存在していないなんて。
じっさいに、最期の姿を私は見ていないし、実はただのうわさで、本当はどこかで今もガッハッハ〜と笑っているんじゃないだろうか。KöoKだって、どんなに検索に引っかからなくても、今も音楽を創り続けているかもしれない。

人生はほんとうに、偶然の連続だし、奇跡の連鎖で、お互いの人生の中で交わるときは一瞬で。

そして、この世に存在するかどうかではなく、残り続けるもの、それが音楽ならいつだって再生できるし、その姿を心の中で再生することで、いつだってその魂に触れることができる。

人に会えない今、そんなことを考える。





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