景色

友人にもらった三題噺のお題「蜘蛛、参考書、吊り橋」と
また別の友人に勧められた官能小説というジャンルで書きます。

「あっ」
蜘蛛がいた。小さな蜘蛛が。
私の上にのさばった身体の向こう、決して遠くない決して綺麗でない天井に。
「何」
と甘くだらけた声がした。
「別に」
私は相手の耳珠に齧り付いた。
吐息が漏れる。汗の粒が私の頬に落ちる、ポタリ。
吐息に混じって溢れる、話し声から少し離れた声色。
私以外の前ではあの声しか発さないのだ。私の前ではあの声もこの声も発するのだ。そんな優越感。たとい私以外の誰もがこの声を求めていなくても。
しかしまだ、この声を惜しみなく出すことはなく。私以前の相手の前では噛み殺さずにいたのだろうか。そんな劣等感。
先の私の声も、この爛れた類のものと思われているのだろう。それでいい。
蜘蛛がいたんだ、なんて。
それはきっと不正解だ。

恋愛は性の営みは、誰も教えてくれない、参考書などない。
よくそう言われるが、果たして。
インターネット上にタダで転がっているあれらはまさしく恋愛の性愛の参考書ではなかろうか。
そこに載っていた。
『ムードが大事』と。
だからその通りにしよう。
蜘蛛がいた、その事実を報告することはおそらくムードを壊す。

「あっ」
何も発見していない。触れてくる手の感触に声が漏れたのだ。
その手は冷たかった。
私の体はこんなにも火照っているのに。
私の手でその冷たい手を包んだ。
指を絡めると嬉しそうに絡め返してきた。
手で触れると、そこまで冷たくは感じられず、あぁ、私の体があまりにも熱かったのだと気付いた。
「何」
少し意地の悪い声色。
「別に」
私は絡めとった指を口に含んだ。柔らかく吸い付くと、その指はするりと抜け出し、私の唇をなぞった。
その指先を見つめる相手の目にかかる睫毛の影に嫉妬して、私は唇を奪う。
盗むのでもなく、貰うのでもなく、奪う、のだと。
誰が言ったか知らないが、うまくいったものだなと感心する。
奪ったはずの唇は私の首筋を、鎖骨をなぞる。
不覚にも肩が跳ねる。

「あっ」
それを見てまた意地の悪い声色で。
「何」
私は顔を背ける。
「別に」
こういう時に可愛いだとかいう言葉は使わない。
以前理由を尋ねたら、安っぽいから、と返ってきた。
安くても分かり易くていいじゃない。
じゃあ、分かり難い僕を理解ってよ。
そういえば、付き合おうなんて言葉もなかった。
なんと言っていたっけ。

危うい人ね、と私の知人は私の恋人を称する。
危ない、ではなく、危うい。
あぁ、恋人ともわからないのか。
けれど、世間一般のそれに限りなく近いのは確かだ。
危ういこの人は、この狭く古いアパートの一室で、私を抱く。
私の臓器に包まれるのに私が抱かれるのね。おかしな話よ。
この部屋に不満はない。
蜘蛛がいるこの部屋に。
蜘蛛を見つけるのはこの部屋のせいではなく、伽に夢中になれない私のせいだ。
この部屋も、この人の危うさの一部なのかしら。

「あっ」
あの冷たい指が、私の一番火照ったところから熱を奪う。
「何」
その目が私に求めるものはわかる。
けれどそれを私は安くて分かり易い言葉でしか示せない。
「別に」
安いかもしれないが、分かり易くはないでしょう?
それとももう、分かり易くなっているほど、伽を重ねたかしら。
冷たい指が私の内側に触れる、異物感。
徐々に私の火照りが奪われてゆき、その異物感が消えていく。
探ることなく真っ直ぐに届く。
一段と熱くなる。
漏れる吐息を飲み込むように、今度は私が奪われる。
唇を離すと、まるで私の吐息に酔ったかのように、赤くなった顔。
火照っているのは私だけではない。
その事実はいつでも愛おしい心持ちにさせてくれる。
私はその赤くなった頬に手を伸ばし、より熱い耳を抓む。そうして柔らかな髪を撫でる。

「あっ」
今度はバツの悪い顔。
本当に表情が豊かなこと。
あなたの言葉もそれだけ分かり易かったらいいのに。
「何」
真似をして意地の悪い声を出してみる。
「別に」
バツの悪そうな顔は私の胸元に埋められた。
たいして膨らんでもいないのに、固いだろうに。
君の顔が見やすいからいいんだよ。
そうね、私もあなたの頭を撫でやすいわ。

危うい人、と称する人達は吊り橋効果だとかいう言葉をよく私達に遣う。
鼓動の高鳴りの種類を間違えるのだとか。
その意味を知った時は呆れたが、吊り橋とはなるほどな。
進みづらく、戻りづらく、確かにこの人を著す言葉にふさわしい。
一筋に、この人だけをまっすぐ見つめて命綱もなしに突き進む私にも、よく似合った言葉だ。

「あっ」
枕元の引き出しを漁って言った。
「何」
大方、スキンを切らしていたとかそんなところだろうか。
すると私の顔を覗き込み、じっと見つめてくる。
その睫毛はやっぱり長い。
「別に」
そして私を抱き寄せて寝転ぶ。
やはり、分かり難い。
何をするつもりだろうか、私にはわからない。
この鼓動の高鳴りは心地の良いものではない。
私が私の分かり難い恋人のことを思案していると、静かな寝息が聞こえた。

わからない。
それだから、この吊り橋を懲りずに一歩ずつ進むのだ。

緩んだ腕の中で私は仰向けになった。

蜘蛛はもうそこにはいなかった。

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