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アリストテレスとコーチング

1.イデアから形相(エイドス)&質量(ヒュレー)の概念へシフト

プラトンは、「善く生きること」の元となるイデアとは、五感ではなく理性(推論)でのみ認識し得る抽象的な本質であると主張したようですが、アリストテレスは、イデアという実態があるのではなく、単に物事を抽象化して考えるという人間の性質が生み出したアイデアだとして、イデア論を批判しました。

アリストテレスは、イデアとはプラトンの言うように人間の感覚(五感)を超越したものではなく、現実世界の物やコトの中に含まれており、人間の創造行為の中で発現するものであると考えたのです。「善く生きること」に対して、プラトンよりもアリストテレスは実際に生きる人間がより肉薄できるものと考えていたようです。

プラトンがイデア(例:三角のイデア)を、現実に存在する実体(例:紙に書いた三角形)に性質を付与するものであり、実体から独立して存在する他なる実体として考えました。

それに対しアリストテレスは、現実に創造される実体(例:紙に書いた三角形)に性質を与える形相(例:三角のイデア ※ちなみにアリストテレスはこれをエイドスと呼びました)は、そのものの物質的な素材である質料(例:紙、鉛筆の芯 ※ちなみにアリストテレスはこれをヒュレーと呼びました)と本来分離が不可能で、エイドスは現実に創造される実体に内在するものと考えました。

例えて言えば、プラトンのイデアは判子のようなもの、アリストテレスのエイドスは押された刻印のようなものと捉えたのであり、イデアは個物から独立しているが、エイドスは具体的な個物において、しかもつねに質料とセットになったかたちで実在するものと考えたのです。

2.世界は4つの原因で説明できる(四原因説)

芸術家が胸像を創ろうとする時、まず素材としての粘土があり、その粘土をどのように加工しようかという作者のアイデアがあり、それによって作者が手を動かして最終的に目的物である胸像が完成します。

アリストテレスは、現実世界もこの胸像の例と同じように、質量(粘土)、形相(アイデア)、動力(作者の手つき)、目的(何のためにつくるのか)の4つの原因により成立しているのであり、このように説明すれば、イデアという実体があるか否か判然としない概念を持ち出さなくても、現実世界の仕組みを説明できると述べました。ちなみに質量はヒュレー、形相はエイドスですね。

なお、質量と形相は密接不可分のひとまとまりで可能態と呼ばれます。完成された状態になる可能性を持っているという意味において、可能態と呼んだようです。

また、動力と目的もひとまとまりで現実態と呼びました。力を加えられ、完成された状態として現実態と呼んだようですが、動力が及んでいるプロセスも現実態と呼びうるのか少し変な感じもしますが、掘り下げるのも面倒なのでこのままにしておきます。

アリストテレスの四原因説は、イデアよりも身体感覚として理解が容易な感じがしますね。ソクラテスから引き継がれている問いは「善く生きること」であり、それをソクラテスは「無知の知」、プラトンは「イデアの希求」としたわけですが、アリストテレスは「可能態から現実態への運動」と捉えたということでしょうか。

う~ん、でも「可能態から現実態への運動」って、「善く生きること」の希求というよりは人間の一般的な行動特性を整理・分類したに過ぎない気もしていて、ソクラテスの問いからは遊離していくアイデアのような気がしてしまいます。うまく言えないけど、ここでギリシャ哲学の真善美における真への偏重が完成した気がしますね。

アリストテレスの思想はいったん西洋文明から姿を消して、イスラム世界で発展し、その後逆輸入されて西洋社会の発展に莫大なインパクトを与えたのでした。

3.コーチングの文脈で考察されること

■可能態から現実態への運動はコーチングに応用できる

まず、アリストテレスの言う可能態(質量+形相)から現実態(動力+目的)への運動は、コーチングのモデルとしては綺麗な形なのではないでしょうか。

我々は仕事やプライベートにおいて理想(形相)を持っており、その理想を実現するためには現実世界に関わる中であるべき形(目的)を指向する必要があります。

アリストテレスのモデルに則して言えば、理想をあるべき形に具現化するためには、質量(自分含めたすべての外的環境)を可能態の構成要素と見て、動力(自分がどのように現実世界に関わるか)を見定め、実際に現実態における運動を発動する必要があると言えるのです。

すごく当たり前のことと聞こえますが、これって結構重要な示唆だと思うのです。

一つには、可能態を現実態として具現化せしめるのは「自分」だという意識づけがなされるため、世界に対するコミットメント、7つの習慣で言うところのインサイド・アウトが指向される考え方に思われるからです。

二つ目には、可能態を現実態として具現化せしめるには、自分の動力が必要だということです。コーチングの場であれこれ悩んでいても、動力を発動させなければ現実態が具現化されることはないとこのモデルは示唆しているのですよね。

アリストテレスの四原因説は、人間が自らのエイドスを具現化させるためのコミットメントを発動するように励ます思想のように思えました。

■地に足ついたプラグマティックなコーチングアプローチが示唆される

四原因説のモデルは、プラトンのイデアよりは「人生をどう生きるか」という問いに対して地に足ついた実践に人を誘う指向性があるような気がします。机に座してイデアの希求に耽り、無知の知を繰り返しているようでは人間が善く生きることはもとより、世界の発展もないとアリストテレスは考えていたのではないでしょうか。

コーチングでも同じように、アリストテレスの見地に立って考えれば、可能態は現実態における具現化でしか発現はあり得ないのであるから、「ほんとうの自分の人生とは何か」を抽象的に考え過ぎるよりは、世界に対して実際的な目的を持って動力を発動するプラグマティックな動きを人間に奨励するようなものになる気がするのです。

そういった意味では、アリストテレスの四原因説は建設的なコーチングに資する考え方でもありましょう。

■相変わらず直感(≒エイドス)の源泉はようわからんですね

はてさて、「善く生きるには」というソクラテスの問いから始まり、プラトンは「善く生きる」の元をイデアととらえ、アリストテレスは創造性の元をエイドスと捉えましたが、いろいろ素晴らしいアイデアが展開されているような気はしつつ、肝心なことが押さえられていない気がしますね。

それは、一体全体「善」とはどこから来るのか?イデアの元とは何か?なぜそのようなものが存在するのか?エイドスの元とは何か?なぜそのような衝動が人間に起こるのか、という中核的な問いです。

ソクラテスにしろ、プラトンにしろ、アリストテレスにしろ、上記中核的な問いはエポケーして、何かアウトボクシングをやっているような気がせんでもないですね。

ソクラテスは上記根拠を霊魂の永遠不滅性という信念に求め、アリストテレスは(無理やり)論証した神の存在を根拠にしたようですが、どちらも論理というよりは抽象的な信念体系に感じられるところです。

これはやむを得ないところかと思います。私も太極拳をやっていますが、肝心かなめの中核的なポイントは到底言語化できるものではありませんからね。

彼らに限らず、西洋哲学全般が『知る・整理する・体系化する』という解明の欲求に呪縛されていると考えます。

解明するとはどこまでいっても所詮、大脳新皮質による情報処理。これで世界を説明しきるのは無理があるよなと。

Don’t think. Just feel.

の領域があっても良いと思うのです。

ちなみに、上記のように西洋哲学が迂回しがちな論点は、東洋哲学の伝統の中で豊穣な議論がなされています。




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