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病は気から、なのか

右足脛の皮膚が炎症して
そろそろ2週間が経とうとしている

ようやく症状も落ち着いて
かゆみで掻きむしることもなくなった

医者に行けば
「乾燥性皮膚炎」と言われるだろう
(行っていないからわからないけれど)
すぐに薬が処方されて
こんなに時間をかけずとも
皮膚は元に戻っていただろう

あるいは市販薬を塗れば
早く治っていただろう

私は医療を否定しているわけではない

病は気から、というのを
確認してみたかったから
徹底的に自分の内面に問いかけてみた

私と私の対話がはじまる…

そこには激しい怒りの感情や
妬み嫉み恨みの感情、
どうしようもない正義感や
得体の知れぬ罪悪感など…

「私らしさ(エゴ)」をぎゅっと詰め込んだ
開かずの金庫が眠っていた

後生大事に持っていたくて
厳重に鍵を掛けてしまい込んだ
「私らしさ(エゴ)」という宝物だったが
それ自体には何の価値も無いことを
どうしても認めたくなくて
厳重に鍵を掛けた開かずの金庫が
私の奥底に眠っていたことを思い出した

いやいや、
価値があるもないも関係なく
「私らしさ」と「個性」が
イコールではないというだけの話で
その大切にしている「私らしさ」を
否定したり排除したりするつもりもないから
そんな箱に詰めておかずに
外に出してあげればいいじゃない?

大切じゃないとは言っていないのだし
「私らしさ」と「個性」が
ぜんぜん違ったっていいじゃない?

私の「個性」が「私らしくない」からといって
無理に「私らしく」しなくてもいいじゃない?

「私らしさ」という制限があるのではなく
分離の世界を生き抜くために取り揃えた
「私らしさ」という道具があるというだけで

道具なのだから
使ってもいいし、使わなくてもいいし、
私の「個性」が使いやすいように
使い方を変えたっていいのだし

どれどれ、
その金庫の鍵を開けてみようではないか
「開かず」にしてたのは私なのだから

これは私にしか開けられないのだから……

まるでパンドラの箱…

誰にも渡したくなくて
厳重に鍵を掛け大事にしまい込んでいた
宝物の入った金庫を恐る恐る開けてみると
そこには宝物ではなく
何かがびっしりと書き込まれた紙の束が
しまい込んであるだけだった

書き込まれている内容に目を通すと
それは「私らしさ」の基になる何かで

誰かの知識
誰かが決めたこと
誰かと過ごした記録
誰かに褒められたこと
誰かに貶されたこと
誰か、誰か、誰か、誰か…

そこに「私」という文字はひとつもなかった

どうやら「私らしさ」という宝物は
とても素晴らしい「誰か」に成るために
長い時間をかけ
試行錯誤を繰り返しながら作り上げた
ルールブックのようなものだった

これが「潜在意識」に眠る「観念」の正体か

なるほど

「私らしさ」はこれを基にしているのだから
これに記されていないことは許せないし
間違いだし、悪だし、あってはならぬわけだな

だからこそ「私らしく」成るためには
ネガティブな感情や
ネガティブな反応が必要なのね

この皮膚の炎症は
「あなた「私らしく」成っていないよ!」という
身体からのお知らせだったのかもしれない

…そこに気付くと不思議なことに
皮膚の炎症が気にならなくなってきて
掻きむしることもなくなったから
症状も徐々におさまってきた

金庫から出てきた「私らしさ」は
やっと自由を手に入れて
基になっている「誰か」のところへと
どんどん還りはじめていく

なんだ、私を縛り付けていたのは
誰でもなく、私だったのか

「私らしさ」という謎のルールに
がんじがらめになっていただけで
そもそも「個性」ははじめからここに在り
「私らしさ」に頼らなくとも
いつでも使えるようになっていたのだ

「私らしさ(エゴ)」を大切にしていると
そこに当てはまらないことをする度に
そうじゃないよ!私らしくないよ!と
感情や身体を使ってお知らせしてくる

病は気から、というよりも

病は私が己の「個性」を否定し
「私らしく」成ろうとするから、

…そんな風に今は感じている

理想の表現もいいけれど
個性の表現はとても美しいものだよ

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