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「嫌悪感」の壁

小学校への通学路で、たまたま運悪く犬のクソを踏んだ。それを見て一斉に私から遠ざかる一緒に登校していた連中に「道端ウンコ踏ん太郎」とからかわれ、ばい菌扱いされた。悔しくて、通学路沿いの家の犬小屋からたまたま顔を出していた、全然関係のない犬を蹴飛ばしてやった。少しスカッとした。

その日の朝礼で、「感謝はすべてを癒す」というお題目で、校長が話している間も、運動靴の裏を地面にこすりつける動作はやめられない。今すぐ校長の前に出て行って、靴の裏の溝に張り付いた汚物を、校長の服にこすりつけてやりたい衝動に駆られる。「心にたまった鬱憤を、私にぶつけなさい、汚物ごと受け止めてあげよう。」と大きく包み込む暖かさを想像して。犬の糞は汚いものだという、みんなが共通して持つ「嫌悪感」、その汚物に触れたことで、「嫌悪感」の対象となった。校長なら、この「嫌悪感」というレッテルを負わされたら、どのように対応するのだろうか?感謝の念が、「嫌悪感」を打ち負かすのだろうか?

「嫌悪感」が仲間外れという寂しい感情と結びついて、心の奥に張り付いた。それ以来、地雷を踏まないように、下を向いて注意深く歩き続ける癖がついた。頭ではわかっている。地雷を踏んだところで、腸内細胞や腸壁の残骸に、しばし付きまとわれるだけだ。ただ「嫌悪感」の壁が、地雷を踏まないように、私を歩かせる。体外に排出されたものに「嫌悪感」を感じるのに、その「嫌悪感」を起こす排泄物を作り出した張本人である、体内の新陳代謝のシステムにどうして「嫌悪感」を感じないのだろう?腸内の排泄物製造過程を想像したら、そのドロドロ感におのずと「嫌悪感」が湧き出してくるだろう。排泄物の臭いが、早く自分を片付けさせ、清潔な環境を取り戻させるために「嫌悪感」を利用しているのはわかるが、その臭いも中身も、体内で隠されているだけで、「嫌悪感」が生まれるかどうかが分かれるなら、その「嫌悪感」は、脳内で勝手に境目を作り出して、その一方だけを差別、いじめているのと変わらないのではないか?

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物語に登場するさまざまなキャラクターの認知の歪みが交じり合い、多彩で深みのある情景や世界を描かれるとき、「作られた」現実の世界と「現実」の境界はぼやけてくる。小説は私たちの認知の歪み、そしてその歪みが作り出す無限の可能性を、現実以上に巧みに描き出せる

「認知するから世界が存在する。現実の世界は脳の創造物で、脳の数だけ現実が存在する。私たちの認知の世界は「イルージョン」であり、脳に完全に依…

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