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本当にやりたかったことを改めて考えよう、見えない言葉の美しさに魅了されるー3ヶ月後に人生を終わらせると決めた【7日目】

3ヶ月後に人生を終わらせると決めた



7日目
本当にやりたかったことを改めて考えよう



今の人生をやめることにした

3か月で今の人生を辞めることにした。なんていうとなんてことだろうって思う…。とりあえずどういうことかというと・・・


色んな欲も、したいことも少なってきた今。
欲しいものもないし、やりたいこともない。

けれど、小さい時からやりたかったことは…と考えると、私は作家になりたかった。
言葉って素晴らしいと思う。私はあんな素敵な言葉を綴ることができないが、憧れは素敵な言葉綴って、人の心を動かせるような、人の人生を少しでも変えることができるような、そんなことがしたいと思っていた。

昔は話そのものの発想や、展開など、それが思いつけることが才能だと思っていたが、些細な台詞とか、台詞回しとか、それを聞いただけで誰が脚本家か分かるような発想や台詞が書ける人が本当に素晴らしいと思う。

特にドラマや映画を観ていて,私の中で、すごいなと思うのはクドカン(工藤勘九郎氏)やバカリズムだ。
あの台詞回しや発想は本当に独特で、観てすぐに分かる。あれこそ芸術だ。映画やドラマは娯楽であるが、芸術だなっと思わせてくれる人たちだ。

最近ではドラマ【SILENT】は、話自体も良かったけれど、その中にさりげなくちりばめられた台詞から、脚本家の優しさがが本当に伝わる、素晴らしい台詞がたくさんあった。あのドラマそのものも泣けるんだが、あの台詞回しは独特で、こういう脚本が書けたらいいなと思うような作品だった。

同じ脚本家が今また別のドラマを書いていて、それを観て「あああ、この人は本当に繊細な人で、HSPなんだろうなあ、」と思えた.

ドラマの中でそういう繊細な部分を演者を通じて言ってもらう。なんて素敵なことだろう。
だから「Silent」がただの聴覚障がい者の話ではなかったんだと思うのだ。
聴覚障がい者だけれど、大事なのはそのまま部分じゃなくて、段々聞こえなくなって、今までの自分じゃなくなる自分を今までの友達に見せたくなかった自分や。

周りに理解されない小さな苦労や苦しみが、本当に切なく細かく書かれていた。

障がい者の感じる些細なことや、周囲に言われる心ない言葉。そのせいでどんどん自分の殻に閉じこもる持っていく。

けれど実際は昔の友人は、今再会しても今までと同じように接してくれて、どうして今までこんな風に思ってしまったんだろうって、思えるような気持ちになる。

障害を持つと、いや持っていてもいなくても自分と他者を比較して、落ち込んだり、卑屈になったりすることもある。
けれどそれを蹴飛ばしながら明るく生きること、だってそういう自分を受け入れなければ、生きていけないのだから、仕方ない。

それは一種の諦めかもしれないけれど、今の自分を受け入れることでしかい前へは進まない。
「silent」には悪い人は出て来ない。

けど自分の気持ちを表してしまうため、それが誰かを傷つけてしまうことはある。自分の中に抱えているそうしようもないモヤモヤを言葉にして誰かに伝えてしまうと、誰かを傷つけることもある。

本当に、各キャラクターの繊細な気持ちがよく現れていた良い作品で、それが障がい者というカテゴリーだったからこそ、その苦しみや悲しみが分かりやすく出ていたと思う。

次の作品、「いちばんすきな花」は設定はシンプルだけど、もう少し複雑だ。障がいのように、分かりやすい設定ではなく、1人1人の間が方が、ちょっと繊細で、皆「良い人」で自分の気持ちを他者に伝えられないで、心の中にしまい続け、そんな繊細な人たちが集まって、心地の良い空間を作り出していく。

皆それぞれ違うバックグランドで、普通だったら出会わないような人たちかもしれないけれど、良い輪(和)を作り出して、それぞれに居心地の良い空間にホッとしている。

でもなあ、この繊細さんの感覚って分からない人が多いんだろうな、と、この期一推しのドラマなんだけど、分かって見られてないんだろうなあの切なさも感じつつ、私はこのドラマを観ながらも、こうして自分の感じるこの世界を、ドラマを通して発信できる力ってすごいと思っている。

snsやブログがある今の時代、誰でもが好きなことを発言し、発信できる。なんて素敵な世界なんだろう。

私もこうして好きなことをダラダラ綴ることができる。

私は書くことは好きだ。本を読むことも好きだった。けれど、なかなかちゃんと良いものが書けるとは思わない。書くということは難しくないが、良いものを書く、人に感動を与える、というのはなかなか難しいものだと思った。

頭の中では素敵な言葉が生まれても、それはその後すっかり忘れてしまう。ちゃんと書き留めておかないといけないなと思うのだが、なかなかそんなこともできない。

私の人生を少し語ると、かなり変わっていると言われる。だからその人生を書いたら、面白いものが書けるのかもしれないが、なかなか素敵な言葉を綴ることができない。

そして、そんな奇想天外な人生も書き残して行きたいし、「書く」ことが自分の職業にできたら、私はきっと幸せねなれるのかなと思ったりする。

そしたらどこでもなんでもして生きていけるのに。どこにいても良いし、好きな時間に仕事ができる。逆を言えば、ある意味外から出ないで、社会と遮断した世界でも生きていけるということだ。

もしも神様が1つ才能をくれると言われたら、書く才能が欲しいと思う。いくら変わった人生を送っていても、そこそこ面白い発想があったとしても、素敵な言葉を綴るには、まずは語彙力や表現力をつけないといけないし、今の私にはその力を向上させるのはなかなか難しいようにも思う。

でも、あと3か月、いやもう3か月もないこの人生で、私はできれが今の人生のことを書きたいと思っていたのだが、なかなかその時間がなかったり、あっても机の前に向かうと同じように言葉がつらつら出て来ない。

結局、毎日書こうと思った3ヶ月ノートも、諸事情で3ヶ月も時間がなくなり、急遽今月いっぱい、この決断をしてからさまざまなことが起こりすぎて、3ヶ月が1ヶ月になってしまった。

だから残り2週間。2週間じゃ何もできないや。

残念だなあ。頭の中で色んなことが駆け巡ることがあるのに、それをさああ書こうとすると、それがうまくアウトプットされないのだ。
難しいなああ。

ドラマや映画の脚本を書いて、自分ではない他の人に素敵な言葉を奏でて欲しい。それが昔からの夢というかやってみたいことだったのだが、芸術はやりたいと思ってやることは簡単だが、それでお金を稼ぐ、仕事にするというのはなかなか難しい。

私は結構やりたいことはなんでもするタイプだけど、どちらかと言えばやってみればできることばかりで、短期的なものが多かった。
でもそういった才能が必要なものに対しては、やっぱり自分の努力だけではうまくいかない。

今の世の中、SNSがあって、誰にでも自分の作品を公にすることができて、うまくいけば、それが世間に注目kされて、本を出版できたり、その経験が映画になったり、ということも可能な時代になった。

書くということに関しては、多くのコンクールなどもあり、可能性が0ではない。でも、そこを本気で目指すには、やりたいという気持ちだけでできないこともある。

本当に良いものや世間に注目される、人気のあるものを制作することはなかなか難しいと思う。誰かの目にちゃんと止まることは、運もあるし、努力もあるし、決してそれが良いものでなくても世間に受け入れられることもある。

なかなか難しいのだ。

と考えると、今あと残りの人生の中で、自分のしたいことを全部するということは難しいことなのだ。

好きなことをして、好きに生きているとは言え、それは努力でなんとかなることが多いとは思うのだが、やっぱり才能が必要なこともあるなと思う。ということで、残りの人生、したいことを全てすることはなかなか難しいのかもしれない。

するだけは簡単だけれど、作家になってそれで生計を立てる、となると、それはできないだろうなと思う。

なんて考えながら、もしも私が今ここで今の人生を終わらせたとしたら、私は今作家にならなかったこと、なれなかったことを後悔したりするんだろうか。

後悔をするほど、努力をしたのだろうか…。こうして書くことは好きだけど、本当に没頭してずっとPCの前で下記続けたことはないかもしれない。

確かに人生において500ページほど論文を書いたけれど、あれば苦しかった。面白いというものではなかった。研究や学問はそんなものだろう。

なんて、自分が本当にしたいことをちょっと考えた1日。

でも、まだ少し時間があるので、こうしてちゃんとやりたいことを言っておくことは大事なことだって思うので、とりあえず、書いておこう。

そして、もしもこの人生を終わらせたら、その夢は叶わず終わるかなと思ったり…。でもこうしてやりたいことがまだあるってことは良いことなのかなと思いながら。

叶わない夢というのもあるなと思うのだ。

次の人生では、もっと余裕があって、本当にしたいことに専念できるような…そんな人生にしたい。

★この話しはフィクションでもありノンフィクションでもあります。
決心はしたので、これから3ヶ月、リアルな状況を綴っていこうと思っています。ただし、3ヶ月後にどうなっているかはまだ分かりません。


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