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⑨ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-日本とはこんなに違う海外での全寮制学校生活

9日本とはこんなに違う海外での全寮制学校生活

1986年4月開校の年は本当に大変だったと思う。

学校創立を決めてからの時間もあまりなく、それが海外の、田舎の村の山の中にあるなんて、そうそう作業が簡単に進むわけない。日本と同じように全ての工程が進むわけではなく、教室の机、椅子、生徒居室のロッカーなど全備品のうち半分以上の注文が遅れ、能率の良くないフランス社会での仕事は難しかったようだ。

足りないものはあったけれど、入学時にはある程度全て揃っていたし、生徒の机や椅子やロッカー、そして2段ベッドもきちんと揃って部屋も教室も整っていた。けれど学校が始まってからは色々な小さい問題が次々と起こっていた。

この学校は全寮制ということもあり、日本人的に学校側が困ったことの一つは開校後の食事、掃除、洗濯など、どういう方式でやるかという問題点があった。日本の学校だからと言って、こんなフランスの田舎の村で、日本と同じようなやり方で全て行うこともできない。

結局外食産業の大手ソデクソというフランスの会社に洗濯アイロンがけ、居室以外の掃除も任せることになった。例えば洗濯にしても、本来、日本などでは洗濯や掃除は生徒個人個人がする寮もあり、日本と同じようにやればよいという考え方だったようだが、結局130人という集団生活の中では無理があることと、そこで建物の地下の洗濯場に十数台の洗濯機が置かれた。また、費用に関しても、フランスの洗濯機は日本と構造が全く違い、洗濯機自体がお湯を沸かし、完全自動化というものなので、洗濯する時間も1時間以上かかり、値段も冷蔵庫なみに高かったそうだ。

そこで生徒には一人一人に洗濯袋が渡され、そして週に1回ほど洗濯をしてもらうというシステムになった。自分の家にいれば、洗濯物入れがあって、いつでもそこに汚れ服を入れることができたが、寮生活になって、週に1回ほどしか洗濯物が出せず、それも数日後にしか戻ってこないので、偶に下着や靴下などが足りなくなってしまうこともあった。

また、最初は服に名前を付けてくるように、ということも言われていなかったので、袋に名前を書き、そのまま自分の汚れた服を入れた。そんな中、他人の服が混ざっていることや、下着が戻ってきたこともあったが、それがいったい誰のか分からないし、特に下着の時は少し恥ずかしいので、それをどう、誰に返せばいいか分からないなんてこともあった。だから同じように自分の下着などもなくなったりした。服は全て一緒にお湯で洗うため、小さくなりすぎたり、白い服がピンクになって帰ってきたり、本当に小さいけれど、沢山の問題があった。

急に一つの校舎に新しい生徒が130人も一緒に住み始めたのだから、仕方ない…。「要は慣れること、共に住むことである。」なんて言われたりもした。

文化の違いで言えば、日本では教室の掃除は生徒がする。これは日本独特の文化のようで、海外に来て、日本文化を勉強する時に紹介される日本の学校文化の一つだったりすることに後になって驚いた。この学校では先ほど言ったソデクソと言うフランスの会社が掃除を担当し、フランス人スタッフが掃除をしてくれた。

ただし、教室がある学校と部屋のある寮は同じ空間にあっても別ものだったので、部屋の掃除は各自でしないといけなかった。中には片付けられていない部屋や、チリ一つない部屋もあり、そのため掃除点検もあって掃除ができていないと罰があった。寮監の先生が体育の先生だったこともあってか、罰は腕立て伏せとか、校庭10週など、どちらかというと体力的な罰が待っていた。私は、あまり罰を受けた記憶がないので、部屋はいつもそこそこ片付けられていたんだと思う。これも、いくら自分は綺麗にしようとしていても、部屋の誰かが掃除をしないと部屋自体は汚いと判定されるし、逆に自分は綺麗にしているつもりでも、そうではないという認識をされることもある。小学校を卒業したばかりの私にとっては、今まで親の元で暮らし、まだ自立をしていない年齢だったのが、急に何でも一人でやらなければならず、それだけではなく、異文化で自分の知らないことを沢山学ばなければならなかった。

通常なら、日本国内にいても親元離れて寮生活をするという事は急に自立しないといけない環境に置かれ、幼い子供にとって厳しい状況だと思う。おまけに家族と一緒でも住み慣れた日本での生活から離れ、異文化や異なる生活習慣になる海外に在住するというのは難しいことだ。その2つが12歳の時にいっぺんに始まったのだ。それだけでも大変だが、そんな未完成の学校で働く学校の先生たちも色々大変だったようだが、それも生徒たちにも色々影響を及ぼしたと思う。

この学校の特徴の一つは少ないスタッフ数だ。各先生が教務・生活・寮の公務分担に分け、連日それぞれの原案作成と作業をこなして職員会議で検討していた。それは生徒にとっても大変なことだった。学校と寮が同じ空間で行われ、オトナは先生しかいない。この空間の中で何かあって相談したり頼ったりするオトナを見つけることもかなり難しい。通常なら学校から帰れば親がいるが、ここには誰もいない。もしも何かプライベートなことで問題があっても、それが「学校」という枠の中では誰かに話すことができないこともある。おまけにフランスのアルザスのぶどう畑の真ん中で、今のようにインターネットなども無い時代だ。この環境はかなり狭まっていて、どれだけ家が、家族が、日本が遠く感じる空間だっただろう。

また、開校当時は寮の規則や寮の管理者が毎年のように変わっていた。最初は各ブロックに若い先生が住んで寮を担当していた。そして全体の寮監として、体育の先生家族が住んでいた。寮生活というのは特殊だ。実際自分が体験したことがないと、この寮生活は先生ですら大変だ。それは日中は授業があり、その後も生徒と同じ場所で寝泊まりをするということは、彼らにとってプライベートがほぼ無いということと同じなのだ。

先生たちは夜も各ブロックの見回りなどがあるため、夜も拘束されることにもなるし、もし休みで部屋にいないとなれば、それも生徒にばれてしまい、例え先生が休みであっても、生徒は後から何か言われることもある。生徒と同じ空間での生活というのは実は先生にとってもかなりのストレスになっただろう。

生徒同士、もちろん、日本特有でもあるいじめの類もあったし、修学旅行の延長のように深夜の宴会も、夜中に近くの村にあった無名戦士の墓への脱出行などもあった。私もそのいじめにあった生徒の一人だった。この学校は海外だけではなく、日本各地から来ている生徒もおり、そんな中、日本で色々問題のあった生徒が地元を離れて海外にまで来てしまうというケースもあった。また、この狭まった空間の中で、生徒もストレスが溜まるため、色んないじめの類が生じていた。

ご飯は同じ学年の自分のグループで一緒にご飯を食べるという風習があり、他のグループと食べるというようなことや、ご飯ごとに別の友達のグループと食べるということもなく、そんなところもとても日本らしかった。
私も、最初同じクラスのグループとご飯を食べていたのだが、ある日から仲間外れにされて、他の学年の生徒と食事をしたりもしたが、最終的に一人でご飯を食べていた。この学校でたった一人でご飯を食べていた生徒は私一人くらいじゃないだろうか…。こんな学校に、「行ってみたい。」と自分の意思で来るようなマイペースな子だったので、実は集団行動が苦手で、自分からグループに属するとか、入って行くということが苦手だった。

それだけではなく、中学1年生に、私を筆頭に次から次へといじめをするちょっと大きい女子がいて、就寝時間に寝ようと他の部屋か、トイレから部屋に行こうとしたところ、捕まり部屋に戻ろうとしているのに、ズルズル引きずられてトイレに連れ込まれて鍵を閉められ、延々悪口を言われたり…。なんていう事もあった。その女子は週替わりくらいに誰かをいじめ、そのいじめられた子達が一緒に集まって、最終的には彼女本人が周りと馴染めなくなっていた、なんてこともあった。

各クラスにいじめや仲間外れに近いことはあったが、男子の方はいじめと言うか、先輩後輩の上下関係がとても大変だったようだ。先輩はよく後輩に頼んで何か買って来させたり、持ってこさせさりということも多かった。女子のほうは逆に上下関係が少なく、私も自分のクラスの子とはあまり仲良くなれなかったが、1つ上の先輩の女子と仲良くして、今でも仲良くしてくれている親友がいたりもする。

そして、実はこの学校で一番最初に根を挙げたのは生徒ではなく、先生だった。1学期のみで学校を早々に辞めてしまったのは生徒の前に一人の女の先生だった。ある意味この狭い空間の中にいる生徒は、生徒同士だけじゃなく、先生いじめみたいなものもあったので、先生に対しても酷い態度や言動をする生徒もいたりしたので、ほぼ全ての女の先生が生徒に泣かされていた。

最初の年は、先生としての教授の仕事が少なく、その代わりに寮に住む若い先生が数人、そして、先生業をメインとし、校外、コルマールなどに住む先生が数人、と分かれていた。恐らく外に住む先生の方がプライベートな時間も持てたし、ある程度楽だったのではないかと思う。
特に、こんな田舎の何もない場所に、生徒も退屈することがあったが、それよりも若い、大学卒業したての先生達にしたら、「フランスで働く」という夢を持って来たものの、現実はそう甘くなく、結構精神的にも大変だったのではないかと思う。とは言え、そんな環境にいた生徒も、もちろん色々大変なことは沢山あった。

オトナの知らないところで、ここだけのコドモの規則が沢山作られていったようにも思う。また、物を貸したらほぼ返ってこない、ところでもあった。例えば日本から送られて来た本などは、誰かに貸すとそれを又誰かが又貸ししてしまい、またその相手が誰かに貸してしまい、元々誰の物かすら分からなくなって自分の物が無くなってしまうということも多かった。

この狭まった環境で、特に群れを作って一緒にいる傾向が強い日本人ではあるが、ずっと誰かと一緒にいるのも辛い時がある。自分の部屋があるわけではないし、一人になりたいけれど、校内では一人になれる空間はなく、だからと言って、一人で出かけるという生徒も、特に女子では少なかったかもしれない。この環境で、自分だけの空間がない、ということが一番辛いことだったかもしれない。

そんな理由からか、この学校の記録書には
『居場所はロッカーの中というもの、図書館の書棚で黙々と文庫を読む者、一人で飽くことなくヴォ―ジュに沈む夕日を眺める者。』がいたと綴っていた先生もいた。簡単にそんな事を綴っているかもしれないが、居場所がロッカーというのはかなり深刻な問題だったんじゃないかと思えるのだ。私もあまり人がいない図書館によく一人で本を読んでいた人間だ。誰もいない図書館は静かで少し怖く、皆どちらかというと本を借りて読むことが多く、この図書館にいる生徒も少なかった。

けれど私はいつも奥で一人本を読んだり、仲良くなった先輩とここでたまに『密会』をしていた。恐らくそんなことは皆知らなかったんじゃないかと思う。通常なら学校の友達、小学校の友達、幼馴染、近所の友達、など色んな枠の友達がいたりするが、ここではこの学校の中でしかほぼ友達ができない。そして、この中には寮生活や海外滞在経験をしたオトナですら少なく、何でも相談できるオトナが少なかった。フランスのぶどう畑の中にある、日系全寮制学校の特徴は、学校という狭まった空間以外、所属できる環境がほぼないというところにもあったかもしれない。

学校の授業に関しては、ここでは東京校で作られた中高一貫のカリキュラムをもとに、実際の時間割の確定、選択科目の振り分け、図書室の運営方法などが作成されていた。だから、フランスにあるけれど、授業内容は日本の教育に添ったものだった。ただ、中学1年生から英語とフランス語の両方の語学の授業があり、ドイツ語を既に勉強した生徒だけ、ドイツ語選択ができるという環境だった。

寮の方では生徒入寮の心得、寮の部屋割や運営方法、生活部の方では生徒の1日の過ごし方、生徒会やクラブ活動の大網など、普通だったら半年も1年もかけて検討することを僅か半月間のタイムリミットの中で制作された。
だからこの学校は開校当初はまだ完全なる学校ではなく、生徒も一緒に作っていく学校という印象が強かった。もちろんそれは高校生の先輩たちが率先して行い、私達のような小さい生徒はただそれを見ているだけという状態でもあったが、幼いなりに、そんな場所に関われたことは本当に生徒としても貴重な体験ができたと思う。

また、最初の1年間だけではあったが、学校と寮が同じ建物の中にあるということは学業と生活が一緒というかなり特殊な環境でもあった。言葉も文化も分からない異国の地にある学校で、校内はどことなく日本で、少し日本とは違う環境でもあり、校門を出ればそこはフランスの田舎村だった。

その他細かく言えば、普通の学校とは違い、生徒の入浴時間や小遣いの持たせ方、パスポートなどの貴重品管理方法、外出の問題など普通の学校や普通の全寮制学校ではあり得ないことも一つ一つを全部新しく決めていかなければならない状態だった。また、そういう経験がない先生ばかりであり、生徒がしでかす悪行や失態も想像できないこともあり、何か悪いことをすれば新しい規則ができたり、元々あった規則に上手く合わなければその規則が少し変わったりもしていた。本当に最初は先生も生徒も手探り状態の学校だったように思う。

この学校は東京にある成城学園が設立した学校であるため、先生曰く「基本的には、成城学園の制度・伝統・慣習を踏襲しつつも、教員の半数以上が東京の中高を知らないという状況の中で、かえって自由に、新たなアルザス成城学園の校風が生まれることになった。」と述べている。

確かに、東京校から来て、成城学園という慣習に馴れていた私にとって、東京校から来た生徒もいて、多少その東京校の慣習を持ちつつも、この学校には日本からも私立、公立、出身者、そしてまた海外からも現地校出身、インターナナショナル校出身、日本人学校出身と本当に多様に渡っており、日系全寮制学校とは言え、幼いながらにかなりカルチャーショックを受けたのを覚えている。

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