見出し画像

もっと言葉や大切な何かが根本的に通じ得るか否かー差別なく、他者を受け入れること「silent」を見て思うこと。日本語教師としてではなく、一人の人として思うこと


海外ノマドの思う自分と他者との関係について…。


12歳~海外ふらふら。
ノマドライフ歴…人生の半分以上。

そんな私が思う、自分と他者との関係について…。今日はふっと考えてみた。
今年の夏に行った時ちょっと偶然東京、世田谷区の梅ヶ丘駅に行った
ろうあ者の話のドラマ、「silent」 の聖地だなあと思いながら
今ドラマを又見返していて、少しだけ心がざわついた。

障がい者に対する色んな考えってこんなもんなんだなあって思ったり
人と違うってこと
人種、国籍、性別、趣向
自分はそれを意識して生きていないなあと思っと思った。

※障がい者批判・・・に聞こえるかもしれないので、先に伝えておくが、私は障害手帳をもらえなかった、「障がい者」だ。10年ほど前に左目を失明し、そのころ医者から
「右目も同じようになる」と言われた。
片目が残っていたが、最初は生活に慣れず、白杖を付いて暮らしていた時期もあるし、読み書きができなくなって、結構大変な生活をしていた。

私の場合は、所謂「社会的盲目」と言われる、色や形は見えているが、字が読めない、というような視覚障害で、そう伝えてても結構分かってもらえず

(今も感覚でタイプし誤字脱字も多い)

「私も見えないの!」と強度近眼の方に言われることもあった。
まあ、今はこうしてPCも使うし、携帯も使う。ある程度なら見える。

実は片目が見えなくなって、その後、視覚障害の方にお会いして、
PCを拡大する方法とか、携帯の字を大きくすることとか
色々教えてもらった。

そして、片目の生活にも少しずつ慣れてきた。
「Silent」の中にあったように、生まれた時は見えたり、聞こえたりして、急に、もしくは徐々に見えなくなる時の不安というのは実はよく理解することができた。

生まれつき何かできない人もいる。
それはできないということを知らないで生まれてきて、だから「できる」ことを自分では知らない。
もちろん不便もあるし、他者と自分が違うということも認識しているだろう。

元々できたことができなくなること、これは不安と恐怖でしかない。これから違う自分になる恐怖やできない自分になった不安。
そして自信もなくなるし、ネガテイブになる。
「Silent」を観ていて、そういうもどかしい気持ちがすごく分かった。

私は色んな国に住んでいて、多言語話者であるが、やっぱりこの目になって読み書きはできなくなった。
できたものができないこと…。その辛さ、悔しさはあるが、今はある程度普通に暮らしている。


自分がその立場になって思うこと


自分が「障がい者」になった時に色々考えたこともある。
障がい者に対して「かわいそう」と思うこと。一緒にいることが少し「特別」に思うこと、思われること…。

そういう描写がドラマであって、すごくよくわかるような、でも心がざわついた。普通じゃないことはかわいそうなんだろうか。

人は基準があって。それと違うものを受け入れにくい時があると思う。

それは「障がい者」だけではなく、全ての差別のことだと思う。
だから、差別なんだろうけれど、自分と違うものを他者は受け入れにくいのかなと思う。

性別=男女差別
国籍=人種差別

色々あるが、差別として相手を見下したり、バカにしたり、それが差別というんだろうけれど、人は人を自分とは違うと認識してしまうんだと思う。

差別
相手と自分は別だがその差は上とか下ではない。でも差はある。
だからどんな意味合いでもお互いを助け合うと言うことは大事だと思う…誰かができないことをできる人がするというだけだと思う。


けれど他者のできる、できない、や、違いをなかなか受け入れられなかったりするのかなと思う時がある。

私は小さい頃から色んな国で暮らし、一人で生きていたことが多く、人は人という考えをしている。
肌の色が違っても、言葉が違っても、わかり合えないこともあるが、それでも相手も同じ人間だ。

私はそう思って、日本語学習者でも、外国人でも、わかり合えなくても、日本語や他の言語や、何かしらの方法で相手と繋がろうと努力する。

その差は結局どこで生まれてどこで育ったか、であって、それはお互いが別な人間であって同じ言葉が話せないと言う状況にある。

そして、もちろん言葉ができる方がお互い理解しやすいのかもしれないが、それを越える何かがあるんじゃないかって思うこともある。
言葉そのものよりも、相手に伝えたい気持ち、相手と繋がりたい気持ち、それが大事な気がするのだ。

うまく言えないが、人は人、自分と何かが「普通」と違っても私は気にしない
それは言葉も一緒で分かり合えるかどうかは、分かろうとするかどうかだと思う。

日本語学ができる人との方が相手と仲良くなりやすいが、決してそれだけではない。

でも、周りは違うのだ。
私が一生懸命に伝えようとしても、会話をしようとしても

「先生と話したくない」
「言っていることは分かるが、答える気がない」

なんてことを平気で言う子もいるのだ。

今…私は通常言葉が通じない世界で一人で生きている。
ある意味空気を読まない、読めない人ととして、そこにいないといけなくなる。

本来、相手の気持ちを感じるエンパスなので、意外と今の環境で、何も感じていないふりをしていることは結構大変だ。

言葉は大事だけどそれよりも誰かと繋がりたいと思う気持ち
そして、相手に伝えたい気もち
なんたと思った。
どこの国の人も、誰でも人は皆一緒と思って、対等に話すようにしてきたけれど、それを受け入れようとしない時は、それ以上のことはできない。

言語を教える身として、実は自分自身が今深く傷つくこともあるようで。

この国の言語を聞いたり、一人で話して相手と通じ合えない、相手が理解しようともしない、無視している(ような状況)合えない。

今はその状況に対して、拒絶反応すら出ている。
「Silent」もそうだ。変わっていく自分が耐えられず、今までの友人との関係を絶ち、拒絶していく。

でも昔の恋人は何も変わらず接してくれる。そういう人もいるが周りの反応は違うこともある。

周りと違うことで迷惑になったり、そう思うと自然と、悪いことをしていなくても
「ごめんなさい」と言ってしまう。

私は何も変われずに、周囲と通じ合えず、通じ合おうと努力をしてもらえず(大半は)それでも頑張ってきて…

この国の言葉が分からないことを悪いなあと思ってしまう。

「ごめんなさい」
と言ってしまう。

でも私の周りはそう思わない。私の言葉を勉強しているのは向こうで、でも話そうとしなくてその態度にに耐えられず、自分自身が今の環境に拒絶反応してしまったようだ。
きっと今そういうところで通じ合えない気がして限界なんだろうなあ。

言葉は大事だけれど、言葉では伝えられないこともあるし、言葉ではないところで通じ合えることもある…。

と語学講師らしくない…

身体も心も弱ってしまった、私の弱音。
さて…そんな場所からもう逃げ出そうかな。

そう、私はその場所に耐えられなくなって、ただ次の場所を探す、そしてそれがこうしたノマドライフへと繋がっていったようだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?