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システムに抗うということ。

ちかごろ「システム」への嫌悪感や危機感がどんどん大きくなってきている。僕がこのような使い方における「システム」という概念を意識しはじめたのは、村上春樹のエルサレム賞のスピーチ「壁と卵」だった。

このスピーチは「壁と卵」という比喩を使う。「卵」とは、一人一人の人間のことだ。そして「壁」は、その個人の尊厳を奪おうとする何かであり、その名こそ「システム」と呼ばれれているものだと明言している。

その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。

村上春樹「壁と卵

この授賞式のときに、エルサレムではまさに「戦争」が起きていたタイミングであり、「戦争」という誰も動かすことのできない暴走した「システム」を批判するものだった。そういう「個人個人は悪い人じゃないのに、システムが一人歩きをして人々を殺していく」ということは、今日も変わらず起き続けている。

戦争のような大きなシステムに限らず、我々の周りに何重にも重なった無数のシステムで溢れている。会社のような組織があれば、すぐにシステムができあがる。大企業の「役職による階層」や「縦割り組織」もそうだ。

それらは本来、我々を守るために作られていたはずだ。しかしシステムはいつか一人歩きをし、個人の意見や感情を蔑ろにする。例えば普段のルールとちょっと違う挑戦を若者がしようとしても「それができるルールはないんだ」と一蹴されるといった類のものだ。

あるいは「上から降りてきた仕事」を現場が進め、それを下請けに投げ、なんならその下に個人の孫請けがいるというとき。もはや「誰も感情がいない仕事」が生まれることはよくあるだろう。全員が「いったい誰がやりたくてやってるんだろう」というような仕事だ。そして誰かが頑張って「面白い仕事にしよう」としても「そういうの(システム側が)求めてないんで」とこれまた一蹴される。

文章で書いていると笑えるようなことだが、実際にはまったく笑えないものだろう。システムが優遇され、システムに近い人はまだいいが、最終的に頑張る「個人」はたいてい嫌な思いをし、疲弊し、つぶれていく。

ちかごろ、そういう仕事を見かけることが増えた。グローバル資本主義という巨大すぎる魔物は最も簡単に末端にいる個人をなきものにする。システムの末端にいる誰もが感情を忘れ、夢を忘れ、自分の尊厳を忘れている。

そして基本的に「ひとりひとり」は悪くないのだ。みんないい人なのだ。だから何かが起きた時に「個人を責める」のではなくつねに「システム」の問題を語るようにしたい。

ここまで読んで「自分には関係ない。自分の周りにはそんな嫌なシステムなんてない」と思った人がいたら、それはただの勘違いであり、もうすでに「システム側に取り込まれてしまっているのだ」という視点を持ってもらいたい。

考えてみてください。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれはありません。システムに我々を利用させてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。私が皆さんに申し上げたいのはそれだけです。

村上春樹「壁と卵」

そういうことが必要のないような、誰もコントロールできないようなグローバル資本主義というシステムから暮らせるようなサブシステムをつくりたいと思うけれど、もちろんそれは簡単なことじゃない。だから僕たちは、いつだってシステムを監視しなくてはいけない。システムに自分たちの魂が絡め取られていないか、常に目を光らせてなければいけない。

巨大なシステムの末端で日曜夜も仕事をしなくてはならない、ひとりの個人より。


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