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私の昭和歌謡3 東京五輪音頭 

最近はLGBT騒動で女子は虚しいスポーツ界


昭和は長かった。だから私の昭和人の区分は、1964東京五輪を見たことがあるか、ないかで分ける。もちろん見ている人は、格上の昭和人となる。

えへん。私は格上の昭和人であるぞ!

私は東京五輪を2回観た(ちょっと威張ってます)。

1回目は1964年、昭和39年。

昭和15年に開催権を返上し、大戦終結後昭和29年に立候補。でも、ローマになってしまった。このことは祖父が悔しそうに何度も話していた。

その後再度立候補し、半数を超える票で決定した。どうして?

平沢和重(外交官)の立候補趣意演説や、和田勇(日系米国人実業家)が中南米支持を集めるために奔走したこと、北島義彦(当時都議)や「日本レスリングの父」といわれた八田一郎などの功績が大きかったと言われている。

日本中が、三波春夫の東京五輪音頭を聴きながら、オリンピックを待ち望んでいた。この歌は当時の日本人の精神集合体なのだ。

開会式で、日本の選手団が、森英恵の赤いブレザーで礼儀正しく手を振る映像は、学校と映画館と、近所のテレビで観た。スポーツの祭典なんて、初めてのことだし、わくわくした。

日本が世界に飛び出していく、そういう時代のドキドキ感は、今の人にはわからないだろう。戦争に負けてペシャンコになった祖父たちにとって、日本の選手たちの活躍は、当時の娯楽、相撲や野球やボクシングをはるかに突き抜けた感動だったんだ。

だから、日本選手がメダルをとれば、おじいちゃんはお小遣いをくれた。ゲンキンな孫は、それで記憶に残っているんだと思うw

池田総理から佐藤総理へ変わった年の五輪。佐藤栄作は、私の年頃の総理大臣代表である。長かった。

今の若者は、2020東京五輪(コロナで2021でした)安倍晋三としてオリンピックが思い出になるんだろうな。

その2回を観れたのはラッキーな人生だったと思う。そのために、退職金をはたいて8Kの大画面テレビを買ったんだから。

特に卓球ではたっぷり感動をもらった。私、中学校では卓球部部長でしたから。新しい混合ダブルスなんて種目にびっくりしたし、水谷・伊藤ペアのプレイを大画面の前で踊り狂って楽しんだ。

でも、私は2回目の東京五輪を比べたら、明らかに違うところが1つある。それは、音頭がないことだ。日本で世界イベントが行われる時は、必ず音頭が歌われなきゃいけない。どうしたことだ?

三波春夫の東京五輪音頭は立派である。ああ、大瀧詠一が生きてたらなあ。「ナイアガラ音頭」ならず、現代風めちゃくちゃな音頭を作曲してくれただろうに。それが私の文句。

きっと、今の日本人は日本を恥じてるって思う。戦争体験もないくせに、日本を恥じている日本人がいるんだ。それが団塊だ。許せない。

当時の日本人は、戦争に負けたことを恥じてない。だって、米国はじめとする列強と戦ったのは日本だからだ。対等に戦ったんだ。やっぱり信じる正義のために戦わない国はダメだ。その頃の日本にはそれがあった。

その後、アジアやアフリカはどんどん独立した。白人支配からの解放を日本が先頭に立って戦ったからだ。そして米国は朝鮮戦争、ベトナム戦争に突入していく。ほとんど懲りない国なんだ。

音頭は、雅楽からきている。上手な歌い手が先に歌って、はやし言葉をみんなで歌って盛り上がるんだ。

”4年経ったらまた逢いましょと”とか、”ソレトトントトトント”なんて、よく考えられたと感心してしまう歌詞だ。

私は、いや私たち団塊でない世代の子どもたちは、この歌を歌い、盆踊りも踊った。大好きな歌だし、その歌手、三波春夫さんがシベリア抑留から帰ってきたというのも、誇りだった。

帰国して、歌手として活躍し、晩年は本も書いた。大きく右寄りになって「聖徳太子憲法は生きている」なんて素敵な本も書いた。この本は、必読の書です。みんな読むべし。

現在、日本人が政治家が情けないくらい自信喪失なのを見ていると、悲しくなってしまう。

日本人の誇り、それは音頭にある!と言いたい。

東日本大震災、という名前を政府が決めた。それと同じに、大東亜戦争と決めたんだから、太平洋戦争とか第二次世界大戦とか覚えてはいけないんだ。

私たち日本人は、当時の誇り高き日本人に戻らなくては。

さあ、音頭をうたおうぜ。


【参考資料】


【1960年代歌謡曲の記事】


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