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私の昭和歌謡1 骨まで愛して

町内の敬老会のカラオケで骨まで愛した長老の歌


昭和は遠くなりにけり(おばあちゃんがいつも「明治は遠くなりにけり」って言ってたっけ)私も歳をとったもんだ。

でも、昭和歌謡を聞けば、そこに私の青春がよみがえるの。

だから、昭和人の歌謡曲にまつわる思い出として一曲ずつ紹介していきます。

私が十歳の時、大ヒットした曲。「骨まで愛して」

東京五輪が昭和39年。この五輪を知っているかいないかで、ちょっと昭和人の格も違う。私は小学校2年生のとき、学校の礼法室の畳の部屋で正座して、開会式を見た。

私はこの面白い歌詞を得意げに歌った。サビだけ。
♪ ホネマデー ホネマデー ホネマデ アイシテッ ンホシイイノヲヨーー ♪

で、すぐ忘れてしまった。

なぜなら、当時はたくさんのヒット曲が次から次へと流れてきて、常に新しい歌を歌えることが大事だったからだ。

私たち昭和の子供は、今日はハナコちゃんち、明日はユキコちゃんちと、遊びに行っては、新しい曲の歌詞を確かめながら歌った。

ところが。40年後、町内の敬老会で、私はもう一度、この曲を聞くことになる。

町内の山田さんは、隠居してからは足が不自由だから、時速5キロの電動三輪車に座って移動する。まっすぐ前を向いて、こっちへ来る。耳も遠いから、一度お辞儀をして、待つ。すごく時間をかけて近づいてくる。そばまで来てから、また挨拶する。向こうは軽くうなづくだけだ。

それが、公民館で行われる敬老会のカラオケでは、山田さんは毎年「骨まで愛して」を歌うんだ!

私は婦人部で手伝った時、山田さんが歌うのを初めて聞いた。

こんな席で、ホネマデーーって歌うのもケッサクだし、最初は大笑いしてしまった。でも、そのうち、悲しくなった。奥さんと仲良く町内会の行事に参加して、しかもこんなヒョウキンな歌を歌ってくれている。

私はせいいっぱい心を込めて、自治会の安いお茶を美味しく入れて、奥さんと山田さんのテーブルに置いた。

「山田さん、とっても素敵な歌声でしたわぁ」なんて、今なら言えるけど、当時の私には言えなかった。

その数年後、奥さんが先に亡くなった。もう山田さんは歌わない。そして、山田さんも、もう亡き人となった。

私が ♪ ホネマデーと口ずさむ時は、いつも山田さんの歌を思い出してしまう。城卓矢を真似してはいるのだが、音程もリズムもちょっぴりズレて、かわいらしい歌声だった。

昭和歌謡は古くない。今だってアレンジして歌っている。

それはそれで、昭和人はうれしい。

でも、私の「骨まで愛して」は山田さんの歌声なんだ。



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