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私の昭和歌謡2 上を向いて歩こう

上向いて歩いていてもだいじょうぶ。昭和の道はまっすぐの道


主人は最近、自分の人生から昭和の音楽を一掃した。なぜなら、作詞の永六輔が大嫌いだからだ。上を向いて唾を吐く団塊の世代が大嫌いだという。

ま、私は昭和のプロ作詞・作曲家の曲は大好きだし、それとこれとは別。私の思い出は消せない。ふん

空前のヒット曲「上を向いて歩こう」は、どうしてアメリカのヒットチャート1位になったんだろう。
四七抜き音階がクリスマスっぽかったのかなぁ?九ちゃんの声と歌い方がジャズっぽかったからかなぁ?などと考える。

私は、「ジェンカ」や「幸せなら手をたたこう」、「明日があるさ」の元気な歌い方の九ちゃんも好きだけれど、演歌っぽい感じで遅れて歌い出すところが、悩んでいる青年風で好きだった。

それから、ウウェヲ ムフイテェ アハルコオオオウ(うえをむいてあるこう)という発音が日本語じゃない不思議な言葉に聞こえた。

なんと言っても、2回目の ♪しあわせは、の”は”が半音下がるところ。ここは、九ちゃんがミスったのを聞いた中村八大さんが、いいじゃないかって、そのままにしたらしい。

口笛は、この曲に出会ったから練習した。毎晩布団をかぶってヒューヒューとやっていたら吹けるようになった。当時は、女子が口笛なんかお行儀が悪いことになっていたから、隠れて練習した。67歳になっても、人前で披露していない。上手に吹けるんだけどね。

さて。私は九ちゃんに会って話したことがある。それは、NHKFM横浜放送局うのオンエアだった。

私はNHKが主催したヤングミュージックフェスティバルというのに応募して、地方大会を通過して、総合テレビに出演した。その出演者を招いて話を聞くような企画だったと思う。

私は中学校の音楽教員になっていたから、歌手でデビューなんて夢もなく、趣味のように、昔の思い出のように話した。

でも、九ちゃんはカンペキだった。私のような素人を緊張させることもなく、会話にはマナーと誠実さが感じられた。参った。この時から、私は九ちゃんのファンになりました。

さすが21歳でアメリカの人気番組に出た男は違うなー。

それからまもなく、九ちゃんが乗った飛行機が墜落した。ショックだった。

私は真面目に公立中学校で教え続けました。もちろん音楽です。中学校には合唱コンクールという行事があります。だいたい、曲は定番です。が、私はその年、自分のクラスに新しい曲を歌わせたかったんです。

異動で入った学年で、私などよそ者という雰囲気でした。もちろん生徒は一年生から受け持っている先生になついています。3年で私のクラスになったのは「ハズレ」ということ。辛かった。でも仕事です。

このクラスのために、私は、四人のヴォーカルグループがうたうSUKIYAKIをもとに、混声三部に編曲しました。結果は・・・

時が経てば、みんな良い思い出です。

異動を繰り返して、定年を迎え、再任用を経て、私はまたその学校で非常勤をしています。当時の生徒の、子どもたちを教えています。

1年生の教科書には「上を向いて歩こう」が載っています。



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