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私のGIST体験談 2022年 

 2022年10月、私はGISTの膵頭十二指腸切除の手術を受けました。6時間ほどの手術でした。入院15日。退院後自宅でリハビリをし、12月半ばに職場復帰。お正月には、食事の量や排泄などほとんど回復しています。
 病理検査の結果、転移や増殖がなく、定期的な観察だけで薬物療法もやらなくてすみました。これをラッキーと呼ばなくて何と呼びましょうか。今は人生の大仕事をひとつ終えた気分です。


  1. 早期発見はかかりつけのお医者さん

  2. GISTを知らされた日

  3. 主人への報告

  4. 元気な日常

  5. コロナ禍の入院

  6. 手術前日

  7. 開腹手術とICU

  8. 病室へ

  9. 看護師さんたち

  10. 退院!! 自宅リハビリの決意

  11. 仕事があったから回復できた

  12. 快眠快食快便の記録

  13. 費用

  14. お世話になった便利グッズ

  15. 最後に


1. 早期発見はかかりつけのお医者さん

 60代になってお腹をこわすことが多くなりました。
 ビオフェルミンで十分対応できるくらい。でも腹痛が続いて、かかりつけのお医者さんに行くと、その日に紹介状を書いて専門医に行かされました。大腸の憩室炎と診断され、薬で治癒しました。次の日から元気に仕事へ。

 65歳の冬、外食のカレー店で「胸焼け」を初めて体験しました。食道か胃か?なんか胸がすごく痛い。つまって落ちていかない苦しさ。そんなに痛いっていうのに、全部平らげた私。昭和生まれは残せないんです。

 初めての「ひどい胸焼け」というのがひっかかって、かかりつけのお医者さんに行きました。すぐに内視鏡検査が決まりました。十二指腸に3cmぐらいの腫瘍が見つかりました。先生は市立病院に紹介状を書いてくれました。この対処の速さ、的確さに驚きました。この腫瘍が、後の検査結果でわかったGIST (希少がん)でした。

 早期発見となった理由は「かかりつけのお医者さん」が有能だったからだと思っています。私の大食漢気質や消化器を知っている、おじいちゃんの先生です。感謝してもしきれません。

2. GISTを知らされた日

 市立病院では、診察券を機械に入れると、その日の予約表が紙で印刷されます。その予約表を見たとき、がーん(シャレではなく)がーんとなりました。予約表には「がん外来」が印字されていたからです。

 こんなふうに知らされちゃうの?

 この日は、検査結果を聞く日でした。まずレントゲン医師からGISTの説明がありました。「なーんだ。がんじゃないんだ」と、まずは勘違いをしました。GISTなんて初めて聞く病気ですから。

 次に外科医の先生からGISTの説明と、私の腫瘍の位置からどんな切除になるかを話してくれました。正直、この展開の速さについていけませんでした。ただ、この辺りで初めて、GISTは違う場所にできる”がん”ぐらいの認識になりました。

 私のGISTは十二指腸の真ん中にあって、ちょうど膵頭管と隣接していること。部分切除ではなく、膵頭十二指腸切除となること。それらを図を描きながら外科の担当医から説明がありました。

 わかったことは、転移がないGISTは、まず手術するということ。それで、私は先生を観察しました。特に顔。私は定年まで公立中学校に勤務して、その後再任用で5年、現在非常勤で働き続けています。得意なことは、顔を見て人物を判断することです。

 先生の顔は合格(笑)。手術の日取りを、10月の合唱コンクールの後にしてもらうお願いをして、帰宅しました。私は音楽の先生なのです。

3. 主人への報告

 冷静な主人でも、いきなり”がん”という言葉はやめよう。

 「十二指腸にGISTっていう腫瘍があって手術した方がいいって」
と、まずはジャブ。

 「ま、心配しても仕方ないから、先生にまかせるしかないな」
と主人。

 そこで、私のGISTに”一粒”と名前をつけて呼ぶことにしました。GISTやがんという言葉を言いたくないというのもありました。それから、ユーモアを忘れずに突然襲ってきた不幸に立ち向かうためでした。

4. 元気な日常

 夏の集団検診では、前年の2021年はオールA、それが手術の年2022年には、BMIと肝機能と腎泌尿がCになっていました。やはりこの一年間で目に見えない体の変化があったのです。

 大腸への転移がないかなど、検査はいくつかありましたが、自覚症状が全くない、今まで通りの日常が続きました。そうなんです。この元気のせいで、これから受ける手術を甘く見ていたんです。

5. コロナ禍の入院

 お仲人さんの奥様の方が、コロナ禍の病院でたった一人で亡くなりました。葬儀も家族葬でした。数ヶ月後に知りました。

 なんて世の中になってしまったんだろう。

 家族に看取られず、ひとりぼっちで亡くなっていく悲しさや寂しさを想像しました。そして、私の入院もまた、面会謝絶。GIST一粒ちゃんを取るだけだから、とは思っても不安はよぎりました。

 嫌いな検査の上位に、コロナウイルス抗原検査がありました。鼻の奥に綿棒をつっこむ検査です。2月内視鏡検査の日、8月検査入院の日、そして10月手術入院の日の3回。この検査は直後に「怒り」が込み上げます。鼻が悪いからかもしれませんw

 私が大きな不安を抱えて手術を迎えることがなかったのは、仕事があったからです。管理職への報告、入院中の授業調整、できるだけ自分が手術で休んだことを生徒に伝えなくて済むような計画を考えることに忙しくしていて、あっという間に、入院の日となりました。

6. 手術前日

 手術前日。担当医の説明を主人と二人で聞きました。「自分は何もできないから、先生にお任せするしかない。」としながら、主人は「執刀の経験はどうなんでしょうか。」と聞きました。

 「えっ!?」それって大事ですよね。私はすっかりこういう考えを忘れていました。”先生の信頼できる顔”で手術を決心した私です。やはり手術は経験です。それは調べてなかった。

 先生の答えは「病院の評価にはABCランクがあり、執刀数で決まっている。この病院はAです。」という先生の説明に「なるほど」と納得。外科たるもの執刀すればするほど上達するものですから。

 主人を見送った後、また痛い準備です。静脈カテーテルを首に挿入しました。口から食べられないのでここから高カロリーを入れます。これは背中に入れた痛み止めの管と同じくらいの痛みでした。

7. 開腹手術とICU

 車椅子に乗って主人の前を通り過ぎてオペ室に向かいました。

(手術から目を覚ますまでの記憶は全くありません)

 ICUで目を覚ました時。身体中が痛い。力が出ない。苦しい。それは開腹手術をしたんだから当たり前。

 それより光がつらい。音がつらい。カーテンにミミズがくねっとしたような文字で書いた文章が見える。それから、面白いくらいに考えが視覚化して、映画のシーンみたいに、次々と見えてくる。新しい能力!

 さて。この夜のつらさは、自分ができることは何もなく、ただ時間が過ぎるのを我慢するだけでした。鼻にも首にも、腕にも尿管にも管がついています。脚もマッサージの機械がついていて、その気味悪さを味わいながら、過ごしました。

 夢とも新しい能力ともわからない映像に現れたのは、SF映画でチューブに繋がれたサイボーグのような私や、野戦病院に寝ている兵士の私など、こんな苦しい事実を忘れたい私の空想でしょう。そんな中で、ふっと現れて消えてしまったのが、亡くなった祖母と母の笑顔でした。一人で乗り切らなくちゃいけない。そんな私を見守ってくれる気がしました。

 この日から退院まで、私にとって一番大切である、主人や息子の姿を思い描くことが一度もありませんでした。不思議です。考えるとくじけてしまうからかもしれません。

 ICUの2日目の大仕事。それは体を起こして歩くことです。腸の動きを良くしたり腸閉塞を防ぐためだと聞きましたが、何も翌日でなくてもいいじゃない!!と、情けないくらいヘタレていました。「部屋の入り口までは歩かせる」という看護師のノルマを感じました。

 紙おむつに尿管ですからトイレに行かなくていい。ということは、ほとんど動かない寝たきりです。「動くことで治りが良くなる」「昼間眠ると夜眠れない」「手足だけでも動かそう」「深呼吸が大事」手術前の注意はどこへやら。その気力がないのです。

 ICU3日目はレントゲンを撮って、胃管が外れました。生き返った!うれしかった。さっそくリハビリのお誘いがかかる。ところが悲しいことに(無理矢理ならできるかもしれないけれど)自分から起き上がって歩く気力が全くないのです。泣き出しそうでした。

 周囲の患者さんたちの声はずっと聞こえます。看護師さんへの「ありがとう。だいじょうぶよ。」「悪いわね。お水をくれない。」それから、ユーモアのある会話も。いつも私がしていること。それができない。

 理学士さんだってリハビリの計画があるでしょう。でも、私は今はダメ。情けないことを言って「がんばれ」と言われるかもしれない。

 でも、帰ってきた言葉は「気にしない。それぞれみんな手術の種類も違うから、当たり前ですよ。それより、どこか痛いところはありますか。」この言葉で、背中が痛いのを思い出しました。背中をさすってもらい、気持ちが落ち着きました。

 結局、ICUに5日間もいて、個室へ移りました。病室が空いていなかったせいか、私のヘタレ具合なのかわかりません。

8. 病室へ

 病室へ移ってすぐにしたこと。学校へ連絡しました。二週間で復帰などという、私の甘い計画がくずれたのです。申し訳ない気持ちでいっぱい。

 ところが、学校もコロナが大流行で、私の担当の学年はコロナ休校となっていたのです。喜んではいけないことです。でも、非常勤講師は休めない、と考える私にとっては、神様からのプレゼントの様な気になりました。

 一人部屋に移って、酸素も胃管も順々に外れていき、二人部屋に移動する頃には全ての管が外れました。このすがすがしさ!

 そうなるとリハビリに力を入れないといけません。理学士さんにとって、私は、がんばらない、ヘタレて情けない、偏屈な患者でした。私が頑固に思っていたこと。「自分がやると決めた順番に少しずつしかできない。退院して自宅で自由にやる。」そんな私を、あやしながら適当にあしらってくれたことへ感謝しかありません。

 退院しなくちゃ、と強く思う私は、先生が回診に来るたびに、退院はいつでしょうか?早く退院して学校の準備をしないと。と言い続けました。体力も気力も全く回復していないのに。

 胸からおへそにかけてまっすぐに切除してふさいだホチキスをひとつひとつ助手の先生がとってくれた日。
 「退院はいつにしようか」と担当医の先生が言いました。やったー!
 「火曜日ですか?」「じゃ、火曜日に退院」と先生が言った時、助手さんと私が、同時に驚きました。私は無理だと思ったけど、言ってみたから。

 左腹部からまだ外に血液などがどろどろ出てくる状態で、右腹部の抜糸が終えていない。助手さんは「火曜日ですか?」と先生に聞きました。
 「ああ、(この患者は)学校があるから」と答えていました。

 そう。私には学校がある。戻る職場がある。こんなに仕事がある自分を誇らしく感じたことはありませんでした。

9. 看護師さんたち

 一人で乗り越える、覚悟は大事。でも、私には看護師さんがついている、と強く感じた15日間でした。ここに看護師さんエピソードも書きます。

「昼食まで20分」
 「うんちがもう出ましたー。来てくださーい。」と、叫んでいる男性のところへ駆けつけ、オムツを外すと、突然うんちとおしっこをかけられてしまった看護師さん。「あーあ」「きゃー」など言わずに「動かないでね。このままちょっと我慢してね。」その後、一人応援に来て、手際よく昼食が運ばれてくる3分前に汚物処理を終えました。隣部屋で一部始終をラジオの様に聞いていた私は、その鮮やかさに敬服。

「うんこ噴射」
 尿管が外れて、大好きな牛乳を飲んだ後の下痢。これは大変。点滴をガラガラしながら、看護師さんと一緒にトイレに行かないといけなかった時。「急がないと出ちゃう。うんこ噴射だ。」とか言って焦る私。し終わって「見せないとダメ?」ICUから病室に移ったばかりなので、最後のおつとめが「うんこ噴射」に付き合うこと。ごめんなさい。大腸を牛乳が通ったことを、二人で元気な声で「うんこ噴射ーー」と喜び、「よかったね」と言ってくれたのは24歳の看護師さん。

「子供は先生のことが好きなんだから」
 ICUから一人部屋に移ってすぐ、回復も復帰も感じられず、なぜか寝つけませんでした。点滴交換に来てくれた看護師さんは、中学生ぐらいのお子さんがいるお母さんでした。子供と担任の先生がうまくいかなかったこと、それでも子供は担任の先生が好きで、振り向いて欲しいこと、などを話してから、「大丈夫、ちゃんと戻れるから」と慰めてくれました。3分ぐらいです。短い会話のあと、すぐに眠れました。

「笑わない美人」
 明日は退院。髪ぐらい洗いたい。でも・・・あの看護師さんだ。美人。でも笑わない、無愛想(に見える)その看護師さんが、病室に来て、「明日退院ですね。今髪洗います?」と言ったのだ!わぁ。どんなふうに洗うんだろう?手荒かな?なんか考えて洗ってもらいました。2回洗って、よーくゆすいで、リンスして、「気持ちよかった」と言ったら「よかったですね」と言って、でも笑わなかった。洗髪まで。何から何までやる看護師さん。笑わなくってもいい。美人だからw

「男の仕事。看護師」
 看護婦の時代から看護師の時代になったんだなぁ、と感じました。この入院で二人の若い男性看護師さんの働く姿を見ました。男性がスタッフにいることで、看護師チームとして仕事を進めている感じがしました。周囲の患者さんたちは、気にせずお世話してもらっていました。私は66歳でも、まだおむつ替えは嫌だなぁ。二人部屋の時、隣の患者さんが足の爪を切ってもらっているのに驚きました。30歳の息子は私の足の爪、上手に切れるかしら?

10. 退院!! 自宅リハビリの決意

 わが家に戻ってきました。義妹が愛犬と迎えてくれました。まだ痛いし、力も入らないし、気力もないまま、とにかく、わが家にいるってことが重要でした。義妹は、ブロッコリーを茹でてくれたり、缶詰フルーツや豆腐など、消化に良いものを揃えてくれました。自分で作る気力がない退院後一週間はこうした食品があることは心強かったです。

「市立病院がくれたプリントww」
 退院の前日に、栄養指導wwがありました。若い栄養士さんが、家庭科の授業で配るようなプリントを2枚渡されました。さすが”市立”です。
 ただ、この図表は消化器を一部取ったあとの患者には、しっかり守ろうとするとかなり窮屈です。

 主人は、レトルトおかゆを大量に買い込んでくれました。私は、スープ類を補充しました。いろいろ試してわかったことは、何を食べても良いということ。大切なのは一度に食べる量だけ。

 つまり、もう寝たきりじゃないから、何を食べてもよい。でも・・・
「すごくカライ、すごくカタイ、すごくたくさんはやめましょう」
ということです。

 退院4日目の夕飯にトンカツを食べました。ふだんはそれ程食べたくない油っぽいものが食べたい。これって”つわり”に似ています。で、半分ぐらいの量ですが、ムシャムシャいきましたよ。
 満腹を通り越して1時間ぐらい胃が痛くて動けませんでした。

 退院20日目。気晴らしにお蕎麦屋さんで外食。ざるそば一枚完食。こんなことがうれしいです。退院40日目。この週に学校に顔見せに行きました。職場復帰前祝いを釜飯屋さんで外食。焼き鳥数種と釜飯を美味しく食べました。かなりうれしかったです。

 入院時から気になっていたのが、げっぷ。食後げっぷが出そう、でも出ない、があったので炭酸を飲んだり、いろいろ試しました。その他、嚥下の機能が低下して、錠剤の薬を飲むにも勇気が入りました。今まで気にしないでできていたことができないというのは不安になります。それも退院1ヶ月もするとなくなりました。

 退院二週間目から夕食を作り出しました。リハビリとして特別な運動をやるのではなく、主婦は家事という体を動かす仕事がありますから、まずは、自分の生活を取り戻すことでリハビリになる、そう信じて動きました。

「家事はリハビリ」
 わが家は、石とフローリングとタイルです。簡単に終える時間は30分でした。退院2日目に石の床をモップがけした時は1時間以上かかりました。これはグッド。いいリハビリになる。と、毎日、石の床とその他のフロアを交互にモップがけしました。家もきれいになり、一挙両得。
 
 その次はアイロンです。主人の木綿のシャツのアイロンは毎週1回でした。10枚にアイロンしてから入院したので、退院した時は少しヨレヨレを着ていました。さっそく全部、と思っても全く気力がありません。2枚ずつと決めて、これも日課にしました。

 退院してすぐ決めたことは、病院の日課を守り、起きていること。朝6時起床、夜22時消灯です。そして、座ると居眠りしそうになるのに身体中が痛いのを解決するには、家事、となったのです。年末大掃除をこんなに早く長い期間かけて丁寧にできたのは初めてです。

11. 仕事があったから回復できた

 GISTとわかってから、仕事をやめようと真剣に思ったのは3回ありました。1回目は知らされた当日です。学校に迷惑をかけてしまう。もう定年後再任用まで勤め上げたから、無理して続けるのがいいのだろうか?と考えました。2回目はICUでの体力と気力を失った時です。とりあえず学校には主人から延長の連絡をしてもらいました。3回目が自宅リハビリ2週間目ぐらいです。少しずつは回復しているものの、授業に耐えうる体調までいくかどうか見通しが立たなかったからです。

 これらを乗り越えられたのは、たぶん主人のおかげです。漬物問屋3代目の主人は言います。
「教師が天職だろう」
「死ぬまで働くのがいい」
「やめたきゃやめていい」
 天職というか、音楽の授業しか能がない私は、働くなら学校で教えることを死ぬまで続けるのがベストであって、やめたとしても責めないよと言われたら、ベストを尽くそうと思うのがいいでしょう。ヘタレてる時に重要なことを決心するのも良くないので、主人の考えを受け入れました。

 私にとって感謝したいのが、学校の対応です。非常勤はその授業に穴をあけずしっかりできてこその役職です。それが手術で大穴をあけてしまったわけです。管理職の対応は安心できるし、とても温かいものでした。

 12月に1回挨拶に行き、次の週に1日3クラスの授業を行なって自信を持って冬休みに入ろうと考えました。これも私のわがままですが、実現しました。もう一人の音楽科の先生が、年間計画通り、リコーダーと箏曲学習の授業を終えたところで、スムースに「じゃあ、また私の授業になります」とつなげることができました。

 私がしたくなかったことは「先生は手術して体調が良くないから座らせてね」などと自分の都合を話すことです。

 久しぶりの授業は、全く違和感がなく「先生久しぶりー。何してたの?」という元気な生徒に囲まれて、戻ってきてよかったと涙が出そうでした。学年の先生方も喜んで迎えてくれました。養護教諭の先生の言葉にはまいりました。

 「先生、お帰りなさい。」

 こんな先生たちや生徒に囲まれて、この仕事があるから、回復ができたんだ、がんばれたんだ、やめようという気持ちを追い払うことができて良かった。

 日本に66歳で非常勤をやってる教師がどのくらいいるか知りません。でも、人生100年時代、自分がお世話になった地域の役に立ちながら働けることは幸せなことです。本当に私は幸せだなあ、と(書いているのが退院後63日目だからでしょうw)感じます。

12. 快眠 快食 快便 の記録


 退院後、毎日記録を取りました。これは私のような、すぐ不安になったりヘタレたりするタイプにおすすめです。

 東京五輪記念ノートに記録したものを、Excelの表に入力しました。そうすると、暮れから正月にかけて便秘がちの理由が、モップとウォーキングをやってなかったからか?などがわかります。

 嚥下やゲップの機能が戻ってきた日、深呼吸ができる様になった日、左を下にして寝ても痛くなくなった日、などを目で見ることができると、日にちが経つとどうせ治るんだ、ということになってしまいますが、私のようなタイプにとっては、こうした毎日日記が励みにもなり安心できるのです。

 快眠快食快便は、亡くなった祖父が教えてくれた言葉です。この3つが快ければ健康。その通りだと思います。

 Excelの項目は左から、月・日・曜・外出予定・朝体温・夕体温・尿回数・夜尿数・排便時間・飲食回数・薬・生活(シャワー 風呂 睡眠感)・リハビリ(モップ Walk アイロン 掃除)・事務仕事(学校事務 PC作業)です。

 体温はずっと全くの平温。尿回数と飲食回数は1〜2回減っている。お腹からドロドロした血液が出なくなった次の日から睡眠感が良くなってきている。なんとなく良くなってきているかなー?ではなく、データで確信を持つことで、私は自信を持って回復していると感じました。人によります。

13. 費用

  • 検査入院(2泊3日) 62,050円

  • 手術入院(15日間)194,966円

  • アメニティセット       6,787円(主人にパンツ洗濯をさせないためw)

  • ペットボトル,腹帯など    6,828円

 まだ保険会社は申請中なのでどのくらい戻ってくるかは未定です。私の保険証は定年後から国民健康保険です。限度額認定証もあります。

14. お世話になった便利グッズ

  • ハナクリーンS   60歳から愛用。今回胃管のあとの洗浄でカサブタがとれて、すごーく気持ちよかったです。

  • ペットボトルキャップ抜き ゲップが出ない状態を改善するための炭酸水を主人に頼んだら、一緒に入っていて助かりました。

  • 味の素の卵おかゆ 退院後すぐ食べられるように用意してくれたもの。特に卵が自然にとろりと混ざっているのに驚きます。

  • 中村屋の肉まん レンジで1分半。お世話になりました。

  • アイスクリームとヨーグルト 主人が作るので買いませんが、食欲がない時のアイス、毎日寝る前のヨーグルトで薬いらずです。

  • マタニティーパンツ 手術の傷や、おなかを締め付けない、特に椅子に座った時の苦しさから救ってくれたのがこれ。いまだに履いています。

  • レッグウォーマー アツギの裏が絹のがお気に入りです。病院は足が冷えます。自宅でも同じ。厚手のくつ下と組み合わせて頭寒足熱。

  • 低周波マッサージ器 入院前からPCの時間が長いので、肩こりによる不調を心配して主人が買ってくれました。退院後PCは1ヶ月ほど見たくもありませんでしたが、病室のベッドで凝りに凝った肩をほぐすために毎日お世話になりました。

15. 最後に

 この災難を乗り越えられたのは、ヘタレの自分の力なんかじゃありません。まずは、早期発見のかかりつけのお医者さん、そして執刀医の先生やチーム、看護師さんたち。次に私のわがままを聞いて待っていてくれた学校の先生たち。この手術のことを打ち明けた友人、そして私の実家はカトリックなので、お祈りしてくれた叔母たちに感謝します。

 何より心の支えになったのは、病室で一人で頑張っているとき浮かんできた、亡祖母と母の顔です。そして、私には「主人と息子がいる」ということが、どんなときも私を応援しているように感じます

 さあ、今週から、私を待っている学校で授業が始まります。その準備をしながら、「蘇った音楽教師」の私は楽しくて仕方ありません。



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