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牧瀬里穂とCMと昔話

ここ数日、以下のnoteが私の周りで高評価である。現実と虚構と執念の妄想の非常によいnoteであった。

しかし、このnoteに反応しているのは、やはりというか当然というか同じ時代を共有した同年代の人である。やはり携帯もスマホもない時代、いやもちろん1989年はポケベルはすでにあった。しかし、今のアラフォーたちは当時中学生くらいだ。さすがに持っていない。

そして、良い反応する人たちは地方で思春期を過ごした人だ。東京生まれ、東京育ちの人が反応しないわけではないが、「上京する」ことへの想いは地方の人間の方がずっと豊富だ。プラスであれ、マイナスであれである。

牧瀬里穂の話だ。

クリスマスエクスプレスで牧瀬里穂は確かにスターダムを駆け上がった。しかし、である。やはり牧瀬里穂の登場と言えば、これだ!

ハイシーLだ。このCMのインパクトはすごがった。いきなりスカートをたくし上げるのである。こんなCMを当時の中高生が見たら、どんだけ心を鷲掴みされるか。繰り返しになるが当時は携帯もスマホもない。さらにはインターネットもない!1989年はアメリカで商用インターネットが始まった年であり、日本には一切なかった時代である。

では、この牧瀬里穂のCMが見たい!となっても、どの番組にどのCMが流れるなんて未開のグンマーで、かつ中学生には調べる手段が限られている。それは、

玄光社のCM NOWである。CM NOWは必ず女性タレントが表紙でタレント情報誌に見えるが、ちゃんとしたCMについての雑誌だった。以下は、数年前に実家のロフトで見つけた過去の雑誌たち。

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表紙だけを見れば本当にタレント誌だけれど、ちゃんとした広告の内容もあった。

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上記は92年の7月号の記事。見出しだけ見ると、山手線の新型車両の記事にも見える。

話を戻す。

当時、CM NOWには「番組提供スポンサーリスト」が掲載されていて、どの番組を見ればどのCMが見れるか分かったのだ。当然分かったのタイムだけであり、スポットはわからなかったけれど。当時は今よりタイムの枠がたくさんあったのだ。

そんなCM見たさに雑誌を買っていた中学生が将来CMのプランナーになろう!と思うのに対して時間はかからなかった。単純にCMプランナーなれば女性タレントに会い放題!という不純な動機だったのは間違いない。
そして、不純な中学生は将来CMに携わるため『広告批評』も買い始めるのであった。

広告批評が2009年に「広告がテレビなどマスメディア経由からインターネット経由へ変化していること」に休刊したが、昨今の広告をめぐる問題を考えると、その担うべき役割はずっと大きく、広告批評が現在まであればステマ問題などもなかったのかもしれないと思うことがある。

現在の広告はある意味無法地帯だ。縛りが大きい旧メディアにも問題はあるが旧来の縛りがあるのでステマなどは起きにくい。しかし、成長性だけが独り歩きするインターネット広告は、その無法性によって成長を続けているところがあるのは否定できず、そのルール化は難しい。
かつての植民地を広げていた列強諸国が、植民地では自国の法律など無視していたいように拡大するフロンティアの中では、ルールを守っている奴は後塵になってしまう。ルールが追いつく速度とフロンティアを広げる速度が違うためだ。だいたいフロンティアを開拓する者たちというのは、往々にして既存のルールを破りがちである(語弊がある言い方である)。


そう、牧瀬里穂の話だ。

牧瀬里穂はこのハイシーLの後、上記のクリスマスエクスプレスに登場する。

このCMに関する解説は上記noteを読んでもらえばいい。やはり、クリスマスエクスプレスは、その前にあった深津絵里のCMがあってこそだ。

深津絵里は当時15歳だ。このCMがあったらこその89年の牧瀬里穂が光るのである。

牧瀬里穂で一段と盛り上がったクリスマスエクスプレスは90年になるともう駅は出てこない。

今ならLINEすればいいじゃん!で終わる話になる。ドアに手紙を貼るなんて、防犯上もよろしくない。でも、そんな時代感である。

実は1991年のクリスマスエクスプレスは全く記憶がない。それに申し訳ないけど、この女性の名前を存じ上げない。
そして、クリスマスエクスプレスのCMは1992年で終わりとなる。

これは覚えている。このCMで初めて声が入る。チーズと言いながら笑顔の練習を繰り返し、結局泣いてしまうというストーリ。昔のCMは情緒的なストーリーが多かった気がする。CMも60秒や30秒が多かった。今は圧倒的に15秒である。やはり時間が短いと即ぶつ的なものが多くなるし、CVを考えると即刈り取らなければならないアプリ系などストーリーなどどうでもいい。(語弊がある)

やはりクリスマスエクスプレスは、深津絵里と牧瀬里穂の時がピークというのが否めない。それは2000年に作られた特別編にもこの2人が登場していることからもわかる。

時代柄連絡はPHS?携帯電話?で行っている。時代的にはまだちょっとPHSが優勢か?ちなみに2000年と言えば、初めてのカメラ付き携帯J-SH04がJ-PHONEから発売された年だ。それまで携帯電話にはカメラはついていなかったのだ。

そう思うと、今年の出た最新のiPhoneもグーグルのスマホもカメラ機能を目玉にしていることを考えると、この分野は言うほど進化していないかもしれない。

だから、牧瀬里穂の話だ。

そして1990年、牧瀬里穂はついにポッキーのCMに抜擢される。

直前は森高千里である。そして、牧瀬里穂のポッキーは、ポッキー四姉妹物語につながっていく。それが1990年から1995年の話である。

牧瀬里穂は、宮沢りえ、観月ありさと並び当時3Mと呼ばれていた。この中で一番年齢が高いのが牧瀬里穂である。

牧瀬里穂:1971年生 宮沢りえ:1973年生 観月ありさ:1976年生

宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」が1991年。18歳の人気絶頂だったことを考えるとトンデモナイことだということがわかる。今でいえば、、、やめておこう。

またこの1990年代初頭のCM界隈では、忘れてはいけない人がいる。一色紗英である。一色紗英の前はCMタレントは宮沢りえである。

織田哲郎、ZARD、DEENの歌と共に覚えている人も多いと思う。そして、このシリーズは中山エミリに引き継がれることになる。

ポッキーの話だ。ポッキーと言えば、そうそうたるメンバーがCMキャラクターを務めている。牧瀬里穂もその一人であるが、やはり後に大きな影響を与えたのはこれだと思う。

ガッキーはこれがなかったら今の人気はなかった(と思う)。

だーかーらー、牧瀬里穂の話だ。

牧瀬里穂は1991年CDデビューをしている。作詞、作曲は竹内まりやである。夫は言わずもがなの、山下達郎だ。ここでまた山下達郎とつながるのである。

もちろん、このシングルCDは買った。特典のポスター付きだった。どうでもいい情報だが、私が部屋にポスターを貼ったのは後にも先にもこの牧瀬里穂のMiracle Loveだけだ。しかし、はっきり言って音痴である。聞けばわかる。竹内まりやの作詞作曲はちょっと贅沢すぎた。

歌自体は悪くないはずだったのがお蔵入りするのがもったいなかったのか、

今年、セルフカバーでドラマの主題歌になっていた!さすが、ミラクルである。やはり本家だ、まったく違う仕上がりになっている。

牧瀬里穂との(一方的な)出会いをした中学生は後にどうなったかというと、CMプランナーにはなれなかったが、広告代理店の関係会社に潜り込みCMに関する仕事をする20代を過ごす。そして、いくつかの転職をして、事業会社で自社の広告にも関係する仕事をしている。

クリスマスエクスプレスの話から始まり、最後はミラクル・ラブの主題歌の話にもなったが、人の人生はどのように転ぶか全くわからない。そういう意味で私が広告に関係する仕事をしているのは牧瀬里穂との出会いであったといっても過言ではない。

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