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教育を再定義する。

教育って、曖昧な表現で語られることが多くて、嫌気がさしてくる。

例えば、研修でよく使われる言葉は「子どもに寄り添う」とか「毅然とした態度で」とかでわかるようでわからない言葉が並ぶ。

そもそも、教育の目的が「生きる力」とか「学びに向かう人間性」だとかめちゃくちゃ曖昧なんだよね。

それで、現場では、「学びに向かう人間性」という言葉を具体化させて、授業でどのようにそういった力を伸ばすかといった議論に多くの時間が割かれてしまう。

でも、少し勉強すれば議論するまでもなく答えが出ていることが多い。

失敗してもそこから改善しようとする気持ちだったり、粘り強さだったり、具体的な目標だったり。

あとは、主体性がキーワードになっているけど、結局モチベーションの研究をみればいいと思う。それで、さらになぜを繰り返していくと、ぼくは大脳の発達と、神経伝達物質の役割にたどり着いた。

学校ではよく、場面に応じて我慢させたり言葉遣いを気を付けさせたりするということを指導しているけど、結局それって脳が育っていないといくら教えても「わかっているけど、ついやってしまう。」ということになりかねないよね。

つまり、教育はあらゆることを教えたり経験を積ませることを通して、人間関係形成のスキルとか知識とかを学ばせているけど、本質は脳が育っていないとあまり意味がないと思える。

もちろん、学校の取り組み全てを否定する気はない。むしろ、ほとんどの子どもにとって意味のあることだと思う。ただ、脳科学を学ばずして教育を語ろうとすると本質をついた議論にならないと思うんだ。

例えば、自分の欲をコントロールするためには、前頭葉の発達とセロトニンという神経伝達物質なしでは語ることができない。

前頭葉の発達は、リアルな場でのコミュニケーションや経験を積むことなどで発達する。逆にズームなどを介したコミュニケーションでは前頭葉は大きく働かないので発達を促す点で言えば、学校での活動はとても意味のある活動であるのは間違いない。

でも、いくら前頭葉が発達してもセロトニンの分泌がうまくいかないと、欲に忠実になってしまって人間らしい判断が難しくなってしまうんだ。

しかもそのセロトニンは、朝食を食べたり、朝日を浴びるとか軽い運動をするといった基本的な生活習慣によって作り出される。

セロトニンが不足すると、やる気がでないし、集中力が落ちるし、じっとすることも難しくなっちゃうから指導は難しい。

ちなみに、自閉症はこのセロトニンと、ドーパミンがずっと流れっぱなしになっていて不足した状態であることがわかっているんだ。

セロトニンが不足しているのに、「我慢しなさい。」とか、「相手の気持ちを考えて行動しなさい。」という指導は、その場しのぎになってしまうよね。

じゃあ、学校でできることは何?って考えると例えば、一時間目が始まる前に1分間、外を眺める時間を作ったり、隣の友達とお話をする時間を作るといいかもしれない。

もちろん、生活習慣は家庭での教育がほとんどだから、学校でのできることは少ないかもしれない。けれど、そうした中で、脳にとっていいことという視点で学級を動かしていくのも知っていてほしいと思う。

教育を再定義というテーマで話していたので、最後に再定義すると、

【教育とは、脳の神経回路の強化や神経伝達物質の移動をスムーズにする】ってことになるかな。

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