『ボクの幸せジェット』 vol.2
庭中が、舞い立つ粉吹雪のカーテンに覆われる中、
見逃すまいと目を凝らしてチョットすると、
それは、元々そこにあったかのように、
そこにあった。
ボクの自動車と並んで、まるで友達ででもあったかのように。
周りの景色は変わっていない。
さっきと同じように、みんな雪に覆われたままでおすまししている。
一体誰だろう?
(何だろうとは思わなかった。「何か?」は、知っていたからだ。「ボクのジェット」だと)
黒い窓に、一瞬ギラリっと太い縦じまの光を走らせたその奥で、
見たことあるような「ソイツ」が、手を振ったように見えた。
その時だ。
後ろから、おばあちゃんの声がした。
「タケル、もう寝ましょうね」
おばあちゃんの声は、誘惑の声だ。
逆らえない。
いつだって、ボクのことをお見通しだ。
誰なのかと思って、一生懸命に見ようとしていても、さっきから、ボクのまぶたは重たくてしょうがない。
まぁいいか、明日にしよう。
ボクは、間違いなく明日が来ることを、
そして、今日の続きの場面からそれは始まるんだと思っていた。
テレビの連続ドラマのように、「つづく」ってね。
そうして、スイッチをプチンと消して、今日はおしまい、また明日だ。
ボクがはじめて、いや、一度だけその飛行物体を見たのは、そんな感じだった。
それは、
「明日は、今日の続きではない」と知らされた日でもある。
その後、晴れた冬の日は、毎晩のように居間の窓から庭を見つめていたけれど、もう再び、ボクの前にそれは現れなかった。
毎晩期待感はあったけれども、決して失望はしなかった。
だって、一度とはいえ、確実にボクの目の前に現れたのだから。
そして、彼は確実に、ボクに向かって手を振った。
その彼が誰か?なんて問題じゃない。手を振ってくれたことが重要だ。
それが、どのようなメッセージなのかも、さしたる問題ではない。
だって、漫然とではあるけれど、ボクのこれから先の人生という冒険旅行は、この太陽系を超えて、もっとずっとひろく可能性があるように感じられていたから。
ただ、残念なのは、ボクが手を振り返せずにいたことだ。
「ごあいさつは必ずしましょう」というのが、
年長さん、柿組のお約束だったから。
そんな風にボクは、晴れた冬の夜毎、美しい雪景色のその庭を何度脳裏に焼き付けたことか、その画像は、まるでパラパラ漫画のように、一枚ずつ微妙な動きをともなって、蓄積された。
ある途中の時点で巻き戻すと、本当にパラパラ漫画になるのだった。
自動車はもう無いけれど、桜の木はますます枝を広げ、一番下の太い枝にはブランコまで吊るされ風にブラブラ揺れた。
ボクと同い年のヒバの木は、ボクと競争して追いつき追い越され、一緒にギクシャクしながら大きくなっていった。
それは、まるで古い映画のように、音声無しで再生された。
もうだいぶ分厚くなったそのアルバムは、それまでは心の支えとなっていたが、ある時期から負担となりはじめた。
たとえば、2つの岐路がある。
いつだって、人生は右か左かなんだ。
右は、決めるのは簡単だけれども、今までの自分の心情に反する道。
そして、もう一方の左の道は、決めかねるのだけれども、自分としては、ピッタリと心にフィットする道。しかし、決断のその後が大変で、また重荷を背負うであろうことは、薄々感じられる道だ。
そんなことを幾度となく繰り返し、自己を支えていた大事なものを何もかも喪失してしまったような、、、
「どうして自分だけが」
と自暴自棄になった、
ある冬の夜。
この日も本当にキレイな雪の日だった。世界中のあらゆるものの角が取れ、白く丸っこく、静かにうずくまっているようだった。
最後の1ページとして、長い間、私は周りの街の景色を見つめて構図を決めた。
ゆっくりとシャッターを切り、最後の1枚を確認し、そうしてついに、その心のアルバムをキレイさっぱりとドブに捨てた。
ビール大ジョッキ8杯(これは、未だに仲間内での記録!)分の吐瀉物と共に、本当にキレイさっぱり、何もかも捨て去った。
多分、誰だってそうだ。
モラトリアムの憂愁の時は、やがて終わりを迎え、否応ない ”大人の時” が背後に迫り、グズグズするなと、追い立てられる時がやって来る。
その時、大事なものまでも捨てたことは、後になってから気付く。
そう。大事だってことは、後にならないと分からないものだから。
第一に、人と時間はそれぞれに、そんなことがあったことさえも忘れ去る。