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自分しか見えていない人、言葉の表面しかとらえられない人

 息子の就職先について口出しするのを止めない母親がいる。息子にどこの会社に就職するつもりなのか聞いた。すると、他県のAやBという会社を希望しているという答えが返ってきた。しかし、母親は
「A、Bかぁ。地元で就職してくれると嬉しいけどなぁ。」
などと言ってやまない。長年のこうした減らず口についにしびれを切らした息子が怒りだして、
「うるさい! 口出しするな! 僕の自由だろ!!」
と怒鳴った。これに対して、母親は次のように言う。
「いや、別に強制じゃなくて、単なる提案のつもりだったの。」
息子はさらに頭にきて、
「だからその提案を止めろと言ってるんだ!」
とまた怒る。
それから母親は次のようなことを言うようになる。
「うるさかったか? ごめんね?」
「提案するなって言われたからしないけど・・・」

 この母親は、息子がなぜ「口出しするな」と怒り出したのか考えていない。これ以降この母親が口出しをしないのは、あくまで息子がそうするように言ったからである。息子の側からすれば不本意に口出しされるのは不快でしかないが、それが分からない。わからないから「うるさかったか?」などという愚問を素面で出すことができる。うるさくなければ息子は怒っていない。この母親の中に、
「息子が不快な思いをするようなことをしてしまって申し訳ない。息子のためにこういうことは止めよう」
という行動原理は存在しない。「息子のために」という行動原理を持っているなら、そもそも限度を超えて口出しなどしていないのだから当然である。むしろ、
「自分がこうするのは、あんたがそうしろと言ったからだ」
と責任をすべて息子に転嫁する。自分の非を決して認めない。
「いや、別に強制じゃなくて、単なる提案のつもりだったの。」
という言い訳にもその姿勢は如実に表れている。息子の反抗を受けて、
「うちの子、最近どうしちゃったのかしら・・・?」
などと友人に相談する母親も同じである。少し立ち止まって、
「反抗される自分の側に問題はなかったか?」
とは考えられない。育てられる側はたまったものではない。「息子のため」という行動原理は自分にないくせに、息子の行動原理は常に「私のため」だと思っているのだから、呆れたものである。

 あるいは、息子の希望進路に対して父親は、
「まぁお前の人生だから、それを決める権利はオレにはない。」
といってその希望を受け入れる。しかし、この父親も自分しか見えていない。決して「息子の意思を尊重したいから」という理由ではない。「あくまで自分に権利がないから」という消極的な姿勢を示されて、誰が喜ぶものか。むしろ息子に決める権利があるのである。その息子がよほどバカな道を進もうとしていない限りは、息子の人生を決める権利は息子にある。父親にその権利がないなどというのは、言うまでもない自明の前提なのである。あまり思い上がらない方が良い。
「お前の人生だから、お前が決めていい。」
と言ってくれる父親の方が、息子からすれば嬉しいだろう。加えて
「オレはその道を応援したい。」
と言ってくれれば、息子の喜びは頂点に昇る。

 ところで、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
という質問に対して
「いや、法律は人を殺したら刑罰を科すと言っているだけで、人を殺してはいけないとは一言も言っていないんだよ」
と真面目に答える人がいる。こういう人もきっと同類だと思う。なぜ刑罰が科されているのかについて考えていない。刑罰は人間の生命や自由、財産などに対し強制的に制限を加えるものである。そんな強烈な措置が無目的で定められているはずがない。刑罰が科されるのは、当然、「人が人を殺す」という事態が起こるのを避けるためである。これは、つまり「人を殺してはいけない」と言っているのである。ただ言葉の表面を読んでいるだけで、こんな簡単なことさえ理解できていない。先に挙げた、息子の言葉の表面しかとらえていない母親の例と同じである。あからさまに冗談で言っているのでない限り、こういう人にもあまり関わらない方が良いのではないだろうか。


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