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『ブギウギ』 第10週 「大空の弟」

これぞ神回でしたね。嗚咽する勢いで泣いてしまいました。
趣里さんの歌唱力、表現力がものすごい!
紙切れ一枚で弟の戦死を知らされた家族の哀切をあらわした「大空の弟」。
歌詞も譜割りも難しい曲なのに、魂からの叫びそのもののように歌い上げていました。

客席の父・梅吉(柳葉敏郎)が、息子のことを歌っているのだと気づいてハッとし、みるみる顔を歪めていく様子も泣けてしょうがなく‥‥
水川あさみとの年の差を考えるに、あさみが退場してからが彼の本番だろうとは思ってたけど、ギバちゃんにこんなに泣かされる日がくるとは。

そのあとの「ラッパと娘」はリップシンク(歌は芝居とは別録りで録音されたもの。いわゆる口パク)だったけど、生歌至上主義の私が ”追い泣き” しちゃうぐらい、これまたすごくて。

当局からのお達しで派手な踊りを封じられ、スタンドマイクの前から動けないにもかかわらず、腕を振り回し、ひらりと足を上げ、首を揺らしながら歌う姿は爆発的だった。

「大空の弟」は、昭和10年、服部良一(劇中、羽鳥のモデル)が作った曲だが、音源は残されていない。2019年、服部家で発掘された傷んだ楽譜を、孫の克久がリメイクして演奏したそうだ。

作中では、弟を亡くしてうまく歌えなくなったスズ子のために、羽鳥(草彅剛)が書いて贈り、茨田りつ子との合同コンサートで初披露となる。

見事に歌いきり、万雷の拍手を浴びながらも、舞台に膝をついて涙が止まらず、動けなくなってしまったスズ子を、指揮棒をもった羽鳥が励ます。

「福来くん、しっかりしなさい」
この一言がまた名演だった。静かだけど強くて。

本作の羽鳥は、つかみどころがない天才音楽家だが、
スズ子や茨田りつ子には、同志のような感情も抱いているんじゃないだろうか。ビジネスや功名心ではなく、「歌うことが生きること」である仲間として。

「人生はいろいろある。うれしいときは気持ちよく歌い、つらいときはやけのやんぱちで歌う。そうやって生きていくんだよ」

自分は音楽しかできない人間。音楽を武器に生きるほかない。
それは孤高で烈しい生き方でもあるから、同類であるスズ子や茨田に特別な親愛をもっているんだと思う。

小夜や下宿のおかみさんだけでなく、楽団の仲間たちすら、スズ子に「無理せず休んで」と言った。
でも、羽鳥(と茨田)だけは知っていた、ステージで歌うことこそがスズ子をよみがえらせるのだと。
とはいえ、ひきずっていって歌わせることはできないから、スズ子が歌いたいと思える歌を作り、歌える場をもうけた。
そばに駆け寄るでも、叱咤するでもない、あの絶妙な「しっかりしなさい」には、信頼や切実さ、いろんなものが含まれている気がした。

「日ごろ鍛えた腕に重い銃をもち、憎い敵へ突撃」
弟からの手紙の文面は嘘だ。
いや、そんな手紙を書いた日本兵もたくさんいるだろうが、勇ましい姿が100%の真実のはずはないし、当時の家族だって叫びたかったはずだ、「あの子を返せ」と。

本当の気持ちが言えなかった時代。
六郎の戦死公報以来、現実では空元気で気丈に振る舞っていたスズ子が、初めて思うさま真情をあらわにし、涙を噴き出すにまかせたのがステージ上だった。
頑なに六郎の死を拒んでいた梅吉も、スズ子の歌を聞いて「あいつは死んだんやな」と腹に落ちる。
非日常という「嘘」を見せるはずの舞台に「本当」が染み出し、交錯し、倒錯する。

「大空の弟」という鎮魂歌と共に、スズ子も観客もいったん死の淵をのぞき
「ラッパと娘」で息を吹き返す。
タナトス(死)からのエロス(生)を体感し、笑顔で手を叩く観客たち。ステージ袖で踊る小夜。充満するエネルギー。

「お客様は現実から離れたくて劇場にいらしてるの」
「それだけじゃない。現実に立ち向かう力をもらうために来る人もいる」
かつての大和礼子(蒼井優)のセリフ。

非常時になると「不要不急」と劣後されるエンターテイメントだが、かつて大和礼子が言った「舞台が生きる力になる」という意味がひときわ激しく、そして純度高くあらわれたステージだった。

けれど‥‥
どうしても、今この世界の現実に引き戻されるところもあった。
劇中の「大空の弟」は、愛国心や戦意高揚が強要される時代に、庶民の悲憤をギリギリセーフのところまで表現していた。

検閲で伏せられる部隊の名称や滞在地。
「〇〇〇ばかり 〇〇〇ではわからない」
という歌詞を、スズ子は怒りをもって歌い、観客もそれに共鳴するという演出がされていたと思う。

それでも、スズ子の目の前にあらわれた六郎の幻は、お気に入りの亀の帽子をもって微笑んでいた。
それは死を受け容れ、慰められる側の物語であり、遺された者が生きていくためには必要なものだけれど、実際の六郎は、痛みや苦しみ、飢えや恐怖、無念のもとに死んでいったはずなのだ。

兵隊にされた、ふつうの市民たち。
戦争がなければ死なずに済んだ。

悲しみから立ち上がるためだけではなく、失われずにすむ命を守るための「抵抗」の力を、舞台が、物語が持ち得たら‥‥そう思ってしまう。

国民の過半数が反対していた元総理の国葬すら遂行されちゃうんだから、日本人は今だって、自国が戦争になろうとも止められるわけないよなとか。

そして、10月からの2か月で7千人も殺されてしまったガザの子どもたち。
服をはぎ取られ裸で連行され、地面に掘った穴を前に背後から銃を突き付けられる人々。
これが、現在進行形の世界の現実だ。

もちろん、これまでだって、ウイグルやミャンマー、世界各地でジェノサイドや人道への罪がおこなわれてきていて、日本でも、入管施設やジャニー喜多川による無数の性加害を挙げるまでもなく、いつだって残酷な世界をよそに、食べて笑って生きてるわけだけどさ‥‥

ドラマで盛大に泣いたそばから、
「フィクションで泣いてる場合かよ」
と自分に自分で冷や水ぶっかけるくらいの気分にはなる日々です。


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