稲葉さんはいつでも止まらない時の中に
十代の数年間、B'zの稲葉さんが大好きだった。今でいう「リアコ」、リアルな恋心に近い感情だった時期すらある(イタい)。
とはいえ、世間一般で「ウルトラソウッ ハイ!」のイメージが流通してからは、「えーっと、私が好きなのはそういうとこじゃなくて‥‥」という感じで、好きなアーティストにB'zは挙げなくなったし、何しろ若いみぎり、興味関心は次々と移り変わっていった。
この5月、B'zの全楽曲がサブスクリプションサービスで配信開始されるのに伴って、彼らに関する記事やツイートがちらほらと目に入るようになった。
特に印象的だったのは、「稲葉浩志の詞はジェンダー規範から自由だ」と分析した記事だ。
記事には、「弱音を吐き、自分のカッコ悪さをも晒し、「人はそれぞれ違う、自分の道を生きよう」と男性に向かって呼びかける詞は、マッチョイズムとは正反対だ」とある。
確かに、稲葉さんが書く詞をマッチョだと感じたことは一度もない。B'zといえば日本を代表するロックバンドで、しかも'70年代アメリカのハードロックのように重いサウンドや激しいボーカルがトレードマークにもかかわらず。
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稲葉さんは、女性や恋をどのように書いてきたのか?
昔好きだった曲を久しぶりに聞きなおしてみた。
'90年発表の「Gimme your love」は、バブル経済華やかな時代らしく、ハイスペックな男たちを従えた高嶺の花たる「君」に恋するアッシーくん、という構図だ。めげない「僕」の純情が、滑稽ながらどこかあたたかい印象を残す。
時に襲いかかりたいくらいの欲情を抱きながらも愚直に彼女に尽くし、
「今笑われてもかまわないけど最後は僕が笑う」
と、けなげに決意する「僕」。
他の男が彼女に愛想をつかすまで待ってでも、という心情はトロフィーワイフ願望とは対極にある。
180万枚を売り上げたB'z指折りの大ヒット曲、「Love Phantom」('95年)では、めくるめくようなドラマチックなピアノとギターに乗せて、情熱的かつ破滅的な恋心が歌われる。
溶け合うほどの愛を交わしたかつての恋人を求め、亡霊のようにさまよう男の姿。破局の理由は、男が女を「万能の幻」のように錯覚し、その実体を見失ったからだと示唆される。
幻想的な楽曲の中で、引っ掛かりを覚える異質な詞がある。
卑しい、狡い、格好悪い‥‥など、曲の雰囲気にふさわしい形容詞は他にありそうなものなのに、「せこい」とは。
なんてあけすけなんだろう。相手を自己同一視してしまった自分を、自己陶酔的にではなく突き放して描写している。
やはり、稲葉さんが書く女性や恋は、いつもどこか地に足がついていて、ジェンダーロールを超えた「個」があるなと思う。
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彼のそんな感覚はどこから来たのだろうか?
B'zがデビューした1988年は男女雇用機会均等法が施行されて2年、都会の男女が対等に働きながら恋をするトレンディドラマも花盛りになり始めるころだから、時代の空気も大きいのかもしれない。
けれど、ジェンダーギャップ指数120位('21年)という由々しき我が国だから、私たちの無意識には今に至るまで「男たるもの」だの「女らしく」だのがつきまとっている。
まして、B'zが音楽シーンの中心だった'90年代前半は、たとえばラジオで女性を記号的に見た下ネタを頻発したり、「非モテ」の拗ねたメンタリティを露悪的に表現する男性アーティストも少なくなかったはずだ。
やはり、稲葉さんが古いジェンダー規範から免れた詞を次々と書けたのは、彼自身の資質のような気がする。
ところで、今回、強烈に思い出したことがある。
私は、彼が書く詞の多くに通底する「時が過ぎてゆく」という感覚が好きだったのだ。
「いつかのメリークリスマス」('92年)も終わった恋を回顧するラブソングの佳曲だし、やはり根強い人気のラブソング「月光」('92年)は、彼女の寝顔をつくづくと眺めて濃い情愛を覚えながら、
と呟く男の歌である。
甘やかな夜、幸せのフェーズでも、いつかくる終わりを想像せずにいられない稲葉さん‥‥。
B'zのマイベスト3に入る「pleasure’91~人生の快楽~」は、「時が過ぎてゆく」感覚そのものが主題になっている。
学生時代の音楽仲間が就職したり子どもをもつのを横目に募る焦燥感。しかし、
という諦念はどこか前向きだ。
何かを失い、迷いながらも、「胸を張って」世界の中に居続けるということ。
中高生だった私は、「大人になるってこういう感じなのか」と思いながら聞いていた。
どうせ逃れられないのだから逃げずに立ち向かう、それが大人にとっての生きる処方箋なのかと。
一方で、「時が過ぎる」が孕むのは苦みばかりではない。
アルバムタイトル曲にもなった「Run」('92年)では、時間が育むものの不思議さおもしろさを歌っている。
やはりファンの中で人気の高い「Wonderful Opportunity」('91年)は、悩みの最中にあって「何とかなるさ」を基調とした明るい一曲だ。
そして、私がお小遣いで初めて買ったCD、「Easy Come, Easy Go!」('90年)。
初期の代表曲のひとつだが、このとき既に稲葉さんの人生観は完成されていたように思える。
と達観しつつ、
と、失恋した女友達を励ます。
時が過ぎれば、物事や人の心は移り変わる。
それは別れや焦りももたらすが、楽観にも反転しうる。
禍福は糾える縄の如し。苦しみばかりが長く続くはずはない。
稲葉さんの詞を聞き、自分でも口ずさみながら、私は知らずその感覚をインストールしていたように思う。
いや、子ども心に自分の感覚にフィットしていたから、稲葉さんの詞が好きだったのだろうか?
そして、ふと思った。
「喜びも悲しみも時がさらっていく」という普遍の真理の前に、人は等しく無力だ。男も、女も。
稲葉さんにとって、そのリアルで切実な感覚は、ジェンダーなどの社会規範を軽く凌駕するものなのかもしれない。だから30年も昔から、稲葉さんの詞はジェンダーロールから自由なのかもしれない。
そういえば、「世界に一つだけの花」より10年前に、稲葉さんはこんな詞を書いていた。
この曲のタイトルは「ALONE」という。
人はそれぞれ違う。
無情な時の流れの中で、誰もが本質的に孤独だ、というのが稲葉さんの哲学なのかもしれない。
長年忠実にB'zの曲を聞き続けている友人が、最近のおすすめの曲を教えてくれた。
「トワニワカク」('19年)
ハードなサウンドに乗せて、「永遠に若く永遠に美しくありたい」と高らかに歌う稲葉さん。どだい無理なのは承知だが、誰にも恥じることのない願いだと。
稲葉さんは今も、止まることのない時の中を生きている。
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