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『アンという名の少女』マイノリティはアン・シャーリーだけではなく

終わってしまうのが寂しくてうだうだと残していた最終回の録画をやっと視聴。
途中でゆゆしい展開が見えてきたんだけど、「え? 最終回なのに、そんなことってある? え? あと5分しかないよ???」といぶかしみながら見ていたら、ほんとに「そこで終わるんかーい!!!」という終わり方だった。もちろん原作ガン無視。強い、強すぎるこのドラマ。家族で騒然w

原作『赤毛のアン』では、孤児院で育ったアンが一般社会とズレていたり偏見の目で見られたりする描写は随所にあるけれど、小説の眼目はあくまで「すくすくと成長していくアン」にある。無理解な人もいる代わり、アンはあたたかく確かな愛情に支えられているし、終盤をのぞけば、いきいきとしていてユーモラスな雰囲気にみちている。

しかし、21世紀にNetflixが制作したこのドラマは、驚くほど重くハードに翻案されている。

強く印象づけられるのは、子どもたちの受難だ。
孤児のアンがグリーンゲイブルズのカスバート家にしっかりと根づくまで、また学校で級友たちに受け容れられるまで何話も要し、その間、視聴者は胸がしめつけられるような思いをし続けることになる。

厳しい境遇にある子どもがアン一人でないのも大きな特徴で、後半には、のちの伴侶となるギルバートも孤児となるし、最終回では、フランス人のジェリー少年にもスポットが当たった。
当時、フランスからの移民はカナダでは差別される存在だった。暮らし向きは苦しく、アンやギルバートと同じ年ごろだがカスバート家に雇われて農場の仕事をしている。学校に通えるようになったアンより、さらに低い階層の子どもを創作して登場させているのだ。

ジェリーは、与えられた仕事を一人前にこなす能力をもっているが、カスバート家が大きな借金を背負ったことで解雇され、最後の賃金になるはずだった馬の売却代金は、大の男ふたりに殴る蹴るの暴行を加えられたうえすべて巻き上げられてしまう。

その夜、「一人では眠れない。家ではきょうだいと一緒に寝ているから」とアンの部屋に入ってくるジェリー。ひとつ寝床に潜り込んでもまったく性的な雰囲気にならないくらい、まだ子どもなんだなと胸をつかれた。

子どもの人権という考え方がなく、社会福祉も貧弱だった当時、子どもにとって世界は苛酷だっただろう。
でも、そういった時代背景を超えて、子どもの本質的な弱さが描かれていたように思う。社会と大人に庇護されなければ、たちどころに詰んでしまったり、より強い者の犠牲になってしまうのが子どもという存在だ。

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最終回、初めて3人が顔を寄せ合うシーン。印象的だった

このドラマのアンは、同じように社会の中で中心から外れた【周縁】にいる人々と交流を深めてゆく。

寝たきりの父を看病するヤングケアラーであり、やがて孤児になったギルバート。
移民のジェリー少年。
レズビアンの高齢女性、バリーさん。
アンと養子縁組をするマシュウとマリラについても、生涯独身であるという「社会におけるマイノリティ性」が強調され、若き日に成就しなかった恋と後悔のエピソードが語られた。恵まれた家庭で育つ親友ダイアナは、このドラマのアンにとってむしろ例外的な存在だ。

良き市民として認められるために必要なのは、かつては白人・異性愛者・キリスト教・両親のそろった裕福な家庭などを中心に据えた社会規範に適応することだった。原作はそのような世界観のもとにあると思う。

しかしこのドラマのアンは、当時の規範に適応することによってではなく、孤児として困難を経験し、また同じように周縁にいる人々を含め、社会の多様性や生きづらさを知ることによって、強く賢く優しい女性になっていくのではないかと想像する。

「赤毛のアン」というタイトルが固有性を強く持つのに比して、「アンという名の少女」は、ルッキズムを回避し、それだけでなく、どこか匿名性を帯びている。

ギルバートという名の少年、ジェリーという名の少年。バリーという名の老婦人。マシュウという名の‥‥。そんな「周縁の誰か」の物語だ。彼らは私たちの隣にいる。あるいは私たちそのものかもしれない。

家族で見てよかった。てかシリーズ2以降も地上波でやってくれませんかね‥‥。ギルバートがもっと見たいです‥‥。

 

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