_エディプスを失った街で_

『エディプスを失った街で』第2話



 死者一万五八九六人。重軽傷者六一五七人。
 このうちここ福島県での被害は死者一六一四人。行方不明者一九六人。負傷者一八二人。合計一九九二人。

 東日本大震災の被害者数だ。

 しかし、これはあくまで「身体的」という限定を与えた数であり、あの理不尽な暴力が残した傷は、その程度ではない。

 沿岸部、いわき市のナンバープレートをつけた車が、ここ郡山市でもよく見かけられるようになった。
 家を無くしたということは、同情の余地もないくらいの悲劇だ。

 しかし、俺は彼らが好きではない。

 毎日毎日パチンコ屋に足を運び、国からのお金を無闇に浪費する避難民を、多く見ている。そして彼らは、多く自身の不幸な境遇を盾にして、理不尽な振る舞いをするのだ。
 理不尽な暴力を受けた者が、理不尽な振る舞いをしていい道理などない。
 だから俺は、あの連中が嫌いなのだ。

「そんなこと言っても、あの人たちが家をなくしたのは事実だし、仕事も家も何もかもなくしたんだから、そりゃ、何もできないんじゃないの」

 息子の慎也が面倒くさそうにそう言った。
 食卓には俺が作った唐揚げとポテトサラダ、それに慎也のご飯と俺の発泡酒が並んでいる。長女の杏美はまだ帰っていない。

 高校生にしては少ないお小遣いで、それでも杏美は毎日上手いことやりくりして楽しんでいる様子だった。

「またポテトサラダの味濃いし。お父さんと杏美さんはいいかもだけど、俺もう少し薄い方がいいな」

「酒には丁度このくらいが合うんだよ。慎也もいずれ分かる」

「俺、絶対酒だけは飲まないから」

 慎也の思い浮かべたであろう、彼の母親――俺の元妻を思い浮べる。慎也は、あれの酷い酔い方を見ていたから飲まないなどと言っているのだろう。
 しかし、きっとあいつも飲む。何せ、俺とあれの息子だから。

 購入してから三年しか経っていない食卓用の机は、既にぼろぼろで至る所に汚れがこびりついている。床は飼っている犬の抜け毛や埃でうっすらと白い層ができていて、子どもの成長にとってよくないことは一目瞭然だった。

 もう一ヶ月は掃除をできていない。

 中学生の慎也が、部活がない日だけ掃除をしてくれているが、それでも平日はこのざまだ。俺も仕事と毎日の朝ご飯、夕ご飯、それに震災を機に作らねばならなくなった弁当の用意で手一杯。
 慎也と杏美が洗濯や風呂掃除をしてくれるだけ、まだ助かっている。

 この家にはまるで余裕がない。

 それは、時間や体力の面だけでもなく、お金についてもだった。

 元妻のあれが残した借金は、今の俺の稼ぎで返していくには中々難しい金額だ。おかげで近くに住む親戚という親戚に頭を下げる羽目になったし、慎也にも新しいジャージの一着も陸に買ってやることができない。

「でも、唐揚げはやっぱり美味しいんだよなぁ。俺、お父さんの唐揚げが一番好きだよ」

「いつも適当だよ。味、毎回違うんじゃないか?」

 本当に適当だった。
 細かく分量を量って作る余裕など、今の俺にはない。毎日毎日、せめて同じものにならないよう、弁当を見られても恥ずかしくないよう、それだけを考えて何とか作っているのだ。

「いいんだよ、それでも。美味しいのに違いはないし。また作ってね」

 その言葉に少しだけ救われる。

 慎也は少し、反抗期に入った素振りが見えるが、それでもこうして会話もできれば、ある程度こちらの事情も考えてくれているようだ。杏美もそうだが、遊びたい盛りの歳で、親からすれば頭の下がる思いだ。

「そういや」

「ん?」

 少しだけ言いづらそうに、そして何かを求めるように、慎也がおずおずと口を開いた。視線は照れ隠しか、或いは別の感情なのか、明らかに観ていないであろうテレビの方に向けられている。

「今週の土曜、部活の大会あるんだけど……来れないよね?」

「悪いな、土曜も仕事だ。今週は日曜も休めないかもしれない」

「いいよいいよ。分かってるし。お父さん、忙しいからね」

 隠しているつもりだろうが、明らかに落胆の色が見えた。そしてその感情から逃れようと、慎也は足下にいた黒い小動物の頭を撫でる。虎鉄。もう六歳になる黒いパグだ。

「代わりって訳じゃないけど、これやるから友達と遊んできていいぞ」

 口を開きながら、俺は背後にある棚からぼろぼろの折りたたみ財布を手に取り、中から二千円だけ取って慎也に渡そうとした。

「いいよ、どうせ皆旅行とか行っちゃうし、一人でそんなにもらっても、使い切れないよ」

 しかし慎也は、虎鉄を撫でたまま、そう言った。そして、一息に残りのご飯を唐揚げと一緒に喉の奥に流し込んで、「ごちそうさま」と一言告げるとリビングを出て行く。

 勉強するのだろう。

 塾に行かせてやるお金がないということを理解している慎也は、毎日真面目に勉強している。

 受け取って貰えなかった二人の野口英世が、無表情に部屋の白いLEDの電球を見つめていた。



 十一月になった。

 建築の仕事をしていると、季節の移り変わりがよく分かる。郡山の風は身を切るように鋭く冷たい。もう既に、朝だけは軍手を二重にはめて働く季節がやってきていた。

 夕方になる頃にはしかし全身汗だくで、泥のついた軍手で額の汗を拭う。遠くを見遣ると街を囲むようにして聳える山々の向こうに、夕日がもう沈もうとしていた。

 兄が社長を務める会社は人が少ない。今日は俺と、浪江からやって来た避難民と二人での現場だった。

「そろそろ帰るぞ」

 声をかけると、まだ三十手前の、海でサーフィンでもしていそうな風貌の男が少しだけ嬉しそうにした。

「俺ちょっと服に付いた泥落してきますね」

 車が趣味だという彼――土田は、震災後入ったお金で二台の車を購入したらしい。内一台は四百万円もの費用をかけて改造。

 奥さんとは離婚しているものの、彼の母親と彼の息子と彼の三人で、こちらに新しく大きくて、そして立派な家を建てているということで、その基礎部分はうちの会社で作った。

 離婚していて子どもがいる、という共通点があるものの、うちとは大違いだった。

 羨ましく、また、その金遣いの荒さに少々苛つきを覚えることも多いが、しかし彼は真面目に働いている分、好感は持っている。

「俺、臭くないですかね?」

 自身の二の腕辺りに鼻を押しつけて、汗を吸って臭いだろう服の匂いを嗅ぎながら、土田が戻ってきた。
 陽はもう沈みきって、辺りは青い暗闇に落ちている。

「臭いに決まってるだろ」

 一瞥してそう言うと、彼は持ってきていたバッグから香水を取り出し、それを自身に吹きかけた。

「車には匂い付けたくないんですよね。あ、倉敷さんも泥落してから乗ってくださいね。あと煙草は会社に戻ってからで」

 残りの片付けを言いつけて、面倒だが渋々泥を落し、水道で手を洗う。吸うなとは言われたが、土田からは死角となっている緑色の簡易トイレの影で煙草に火を点けた。

 煙が青い影と溶け合って、昼間の空の色みたいに綺麗だ。

 汗が段々と引いてくると、家に帰ってから何を作ろうかと考える時間だ。冷蔵庫には一昨日のあまりの挽肉があった。他にも人参や玉葱もある。今日は醤油と砂糖で味付けをしたそぼろもどきを作ろう。

 酒のつまみにはならないが、子どもたちが好きなあの料理を。

 しかし、そこでふと、最近は週に一度は作っているから、もしかするともう飽きているかもしれない。という考えが頭をよぎる。
 次の休みには久しぶりに料理本を見てレパートリーを増やすか。

 それに……手元でジリジリと燃えていく煙草を見る。

「これもそろそろやめなきゃな」

 二ヶ月前、少しだけ余裕があったときにカートンで買って以来、一日に一本。多くても二本しか吸わないようにしている。

 酒も発泡酒以外ほとんど飲まなくなった俺にとって、唯一の楽しみだ。

 しかし、最近では特売で百円の卵すら買うのを躊躇われる状況。
 あれがなくなったらやめねばなるまい。
 杏美の進路がどうなるかもまだ分からない。


 根元まで目一杯吸いきって、ゆっくりと煙を吐いた。

 焦げ茶色の土は、踏み出した足を優しく包み込むようにして形を変える。一番星は既に遠くで輝いていた。
 しかし、すぐに薄い雲がそれを隠してしまい、頼りない光は見えなくなる。

 土田の、一昔前に流行ったような名前も知らない車の助手席に乗り込むと、財布を開いて今月をやりくりする方法を思案した。

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