2018年10月公開小説表紙_決定_

『夜の花嫁』第一話


 木製の扉は十年前の記憶の中でさえ古くて薄く、強くノックしたら破れてしまいそうだった。
 だというのに今、目の前に立ちふさがるそれはささくれだってのぶは錆び、最早扉の用を為さないのではないかと思うほどに一層古くなっていた。

 十年という月日の長さを改めて感じる。
 冷静に考えれば、それだけ長い時が経った今、この家に彼女が住んでいるかは分からない。
 だけれど僕には確信があった。
 今も彼女はここに居るのだという確信が。

 扉の向こうからは一家の団欒とでもいうべき声が聞こえてくる。テレビの音、食器が置かれる音、椅子を引く音、母親と思しき女性と小さな少女の話し声。

 この家に住んでいるのは、一人じゃない。

 窓から漏れる温かなオレンジ色の光から、その音が扉のすぐ脇の部屋から聞こえてくるのだということが分かる。十年前には使われていなかった部屋。一度も明かりの灯らなかった部屋だ。

 扉をノックしようとして右手を胸の高さまで持ち上げた。
 この薄い扉越しに、中にいる彼女に気付いてもらうためには、幼子を抱き上げるような白く細い母の手に宿る力だけで十分だ。

 だが、僕の手はその薄い扉でさえ、確かな音を鳴らすことができない。そもそも、触れることができない。
 聳え立つ古い扉が、過去に見たどんなものよりも酷く厚く堅いものに見えた。

 僕は中学生の時に、一人の少女を殺している。少女の名前は曜。

 名前の通り、輝くように笑う、素敵な少女だった。見ているだけで幸せになるようなあの笑顔を、僕は今でも克明に思い出すことができる。
 初恋だった。そして、あれ以来、僕は本当の意味で誰かを好きになることが――まして愛することは尚更できずにいる。

 だけれど殺した。
 僕はあの時、確かにあの少女を殺したのだ。

「分かってる、分かってるよ」

 思わず洩れた言葉は、想起した曜に向かっての言葉だ。

 僕が思い描く彼女の顔は、記憶の中のそれよりも幾らか大人びてはいるものの、大人になるための重要なピースをどこかに落してきてしまったかのように幼さが残っている。
 髪は相変わらず長くて艶やかだ。細くて白い手足は、子どもを生んだというのに未だその美しさを保持していて流石だと思う。

 美しい曜はしかし、いつも僕を鋭く睨んでいる。絶対に赦さないと怒っている。

 いや、怒っているなどという言葉を使うのはきっと間違いだ。僕は彼女を殺した。自身を殺した男に対して持つ感情が、どうして怒りなどというちゃちなものに収まるだろう。

 彼女はきっと、恨んでいるのだ、
 僕のことを。
 自分を殺した、自分の事しか考えられない醜悪な男を。

 だから十年前には見たこともないような表情で僕を睨みつけている。

 だけれど誓って僕は彼女のことを愛していた。彼女に対してだけは誠実でいようと思っていた。

 十年前に始まった僕と彼女の恋は、一つの事件をきっかけにその様相を大きく変えてしまった。
 中学生らしい、甘く儚いただそれだけの恋は、あの事件をきっかけに暗く冷たい湖の底で繰り広げられる、蛇の交尾のようなものに変わってしまった。

 この扉の前でも、幾度互いに口づけを求め合ったことか覚えてない。
 冬。雪が降りしきる中で交わしたキスは、決して甘くはなかった。寒さに比して感じられるお互いの体温からその存在を確かめ合うだけの、無機的で野性的なキス。

 思い出すと身体の芯から冷えていくようで、しかし同時に僕の身体は熱を帯び始める。

 罪悪感は果たして、愛になり得るだろうか。

 僕のこの執着は、本当に彼女への愛ゆえのものなのだろうか。
 ただ、彼女への罪悪感がそうさせているのではないだろうか。僕はその罪悪感を否定できない。これは愛だと声高く叫ぶことができない。


 十年前。
 2011年6月4日。

 よく晴れた日だった。夏の暑さが段々と見えてきて、僕の心は少しだけ舞い上がっていた。
十四歳だった僕にとって、夏は毎年確かに訪れるものだったが決して楽しいものではなかった。

だけどあの年の夏だけは、僕に楽しいあれこれを想像させていた。
恋とは輝いている。曜のように、ただそこにあるだけで幸せに包まれるような、そんな素晴らしいものだ。



「好きです。付き合って下さい」

 多分、この言葉を同時に並べたのは、あの時が初めてだった。そして、その言葉に相手が頷いてくれたのも。
 隠れていた友達たちが飛び出してきて、一様に笑顔を浮かべて祝いの言葉を並べる。

 ただそれだけでも輝いて見えた。
 無論、隣に立って僕と同様に祝われる曜は一段と輝いて見えていて、「曜」という珍しい名前の意味を知った時にはこれほど彼女に似合う名前もないだろうと思った。

 誇らしかった。
 これほど素敵な少女が自分をその恋人として選んでくれたことが。

誇らしいという気持ちは当時理解できなかったが、多分あれが、僕が初めて自分に誇りを抱けた瞬間だったと思う。

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