『夜の花嫁』第二話
2011年8月6日。
当時、僕の家は酷く貧乏だった。
父子家庭でお金もないから旅行とは縁がなかったし、そういう意味で夏休みというものが来る度に憂鬱さを感じていたと思う。
周囲の友達が日本全国、時には海外まで行って休みを楽しんでいるのを、指をくわえてみているしかなかった中学生が感じる切なさ、悔しさ、やるせなさというものは、案外大きかった。
だけど、そんな境遇が母子家庭で、同じように旅行なんかとは縁がなかった曜と僕を繋いだのだ。
お父さんの給料日は毎月五日で、貧乏だから少しだけれど、僕はお小遣いをもらった。
八月は皆旅行に出かけてしまっているから、お金は特に使い道がない。
だから僕は、今日、このお金で目一杯楽しもうと思っていた。
今日は、待ち焦がれた曜とのデートだ。
三日間にわたって行われるお祭りの最終日に行く約束をしている。
待ち合わせは曜の家で、彼女はお母さんに浴衣を着付けてもらうと言っていた。好きな子が浴衣を着ている、というだけでも嬉しいというのに、その好きな子と二人で出かけるのだ。
これ以上の出来事は、この夏休み――もしかすると中学校三年間でもないかもしれない。
待ちきれなかった僕は、約束より二〇分も早く、曜の家に着いた。
曜はお姉さんと二人で一台の携帯を使っていたが、僕は持っていない。だから連絡をとることはできないし、外で待つか扉をノックするしかない。
もしかすると曜も既に用意を終えていて、僕が到着するのを待っているかも知れない。
それに、僕が腕に巻いている時計はホームセンターで買った千円もしない安物で、だから時間がずれていてもうとっくに約束の時間だってことも考えられた。
だって、確かに曜とお祭りに行くことは楽しみだったけれど、流石に二〇分も早く着いてしまうなんて、考えられないじゃないか。
並べた理由がすべて言い訳に過ぎないとは何となく察しつつも、僕は曜の家の薄い木製の扉をノックしようと手を伸ばした。
曜の家は築四〇年は軽くこえているであろうアパートの一室で、中は一階に小さな部屋が二つと、昔お店を開いていたという割と大きなスペースが一つに台所。それと二階に部屋が二つあると曜が言っていた。
部屋数の割に大きくないから、家族五人で暮らすにはちょっとだけ狭くて嫌になっちゃう、とよく言っているのを記憶している。曜は確か、基本的に二階の部屋で生活していたはずだ。
だから多分、軽く、そう、いつも学校の職員室に入る時と同じように扉をノックすれば、曜は気付いてくれるはずだ。もし曜が気付かなかったとしても、家族の誰かが気付いてくれるに違いない。
そう頭では分かっているというのに、僕の手はなかなかその扉に伸びてはくれなかった。
一目で震えているのが分かる。
曜の家には入ったことこそなかったが、何度も曜を迎えに来たり、学校帰り、送ってきたりしている。
だというのに僕は、どうにも緊張しているようだった。
深呼吸をして服を正す。
と、そこで僕の格好が浴衣を着た曜とは到底釣り合いがとれないものだということに気付いた。近所の古着屋で、千円もしないで買ったティーシャツに、二千円程度のジーンズ。
普段は学校指定のジャージしか着ていないのだ。服なんて一、二着あれば事足りるのだし、せめてもう少し選らんでおけばよかったと後悔するがもう遅い。
だけれど、例えば友達から服を借りるとか、そういった手だってあった筈だと後悔はやみそうになかった。
扉の向こうで衣擦れの音がした。
驚いて後退る僕を追いかけるように扉が開く。
「それじゃあ、いってくるね」
「気をつけて行ってくるんだよ」
曜と、曜のお母さんの元気な声。
僕の目の前に、家の中を見たまま勢いよく飛び出してきた曜がいた。
曜の住む年季の入ったアパートと向かいの家に挟まれ陽の光が一切入らない、じめじめと湿った嫌な暑さに包まれたここに、爽やかな風が吹いたようだった。
「よ、よお」
「あれ、嘘、いつからいたの?」
驚いた曜も、可愛かった。可愛い、という言葉を頭に浮かべて少しだけ顔が赤くなったのが分かる。
でも、それでも曜はやっぱり可愛かった。
白地にピンクで花が描かれた浴衣は、黄色い帯を巻かれている。浴衣は寸胴みたいな体型をした人のほうが似合うと聞いたことがあったが、細く、だけどやっぱり女の子だと分かる曜にもしっかりと似合っていた。
濃い色の下駄には赤の鼻緒がついていて、下駄の色が濃いだけに、白い曜の肌がいつにも増して透き通るように綺麗だ。
「ちょ、丁度今。それで、ノックしようとしてたら、音が聞こえたから」
「残念、先に外で隠れて驚かせてあげようと思ってたのに」
早くに来てよかったと思った。もし曜が先に出ていたら、扉の前で手を震わせているのを見られていたに違いない。
「どうしたの? 俯いて……もしかして、わたし、浴衣似合ってない?」
伺うように上目遣いで、曜が僕を見ている。
それでまた僕は、顔が熱くなるのを感じた。今度は身体中が変に熱を持ち始めていて、汗もかき始めていた。今日こそは手を繋ごうと思っていたのに、もう手汗が酷いかもしれない。
「いや、そうじゃなくて」
「本当……? でも、わたしの浴衣、一番上のお姉ちゃんのおさがりだし、確かに似合ってないかもね。ごめんね、着替えてくる?」
「そんなことないよ。その、かわ、いいと思う……すごく。俺にはもったいないくらい」
俯いているのはかっこ悪いからと曜を見ようとしたけれど、やっぱり恥ずかしくて僕は上の方を見た。
「そ、そう……? どうだろう、自分じゃわかんないけど、もし本当なら、嬉しいな」
曜も顔を赤くしているのが、視界の隅っこに写って分かった。
余計に恥ずかしくなって、家の人に聞かれてたらどうしようなんてことも考えて、僕はわざとらしく時計を見る。
「ほら、バスが出ちゃうしとりあえず行こ?」
「そうだね、行こっか」
カランコロン、と曜の履いた下駄が音を鳴らす。
改めて見てみると曜は髪もお母さんに結ってもらったようだった。何て言えば分からないけれど、浴衣に合わせた髪型で、大人っぽい簪もつけている。確か、おばあちゃんの簪が好きだと言っていたから、それをつけてもらったのかもしれない。
下駄の陽気な音と浴衣姿の曜は、目を細めて喉を鳴らす、気まぐれな猫の姿を思い出させた。
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