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私の尊敬する人、桂米朝師

自己紹介などで、尊敬する人物は誰ですか?と聞かれたとき、決まってある人物の名前を挙げます。

本当はもう2人いるのですが、子どもの頃から今までの自分を振り返ってみて、あらゆる意味で自分の生き方そのものにまで影響を及ぼした人、という点において、筆頭に挙げるべきはやはり、この人物しかいないでしょう。

落語家の桂米朝師(1925~2015)です。上品かつ端正な話術で魅了しました。早いもので、亡くなってもうしばらくで丸6年になります。

私と桂米朝師との関わりは、海外暮らしだった幼稚園時代、親が聞いていた米朝師による落語のテープの音源を、そばで聞いていた頃に遡ります。
当時、親以外とは基本的に日本語を話すことがない環境でした。なので米朝師の落語は、祖父母が日本から送ってくれるビデオテープに入っていた『お母さんといっしょ』『みんなのうた』、あるいは『日本昔ばなし』などと共に、自分にとっての数少ない日本語の教材の一つだったわけです。

物心がつき始める頃に米朝師の落語を、それこそシャワーを浴びるがごとくに聞いたわけですから、大人になっても随所に影響が残るのは自明の理。
例えば、演奏会でのMCやレクチャーの場で、何の気なしに発した言い回しや言葉のアクセントが米朝師に似ていると、ご指摘をいただたことさえあります。

小学生になった時点で知っていた上方落語の演題は、ざっと30席ほど。特に米朝師の高座は自然と聞き覚え、その格調高い出囃子(『三下がり鞨鼓』)も好きになり、自分の楽器でそれらの出囃子を弾いてから、そのまま出てきてネタを披露する、といったことも余興の席で何度かやったことがあります。

さて、そんな少し(かなり?)変わった子供だった私が、幸いにも桂米朝師の生の高座に接する機会を持てたのは、今はなき奈良市史跡文化センターでの故・桂枝雀師との二人会。当時小学2年生で、本来入場を許可されない年齢だったはずなのに、父親に連れられて行きました。米朝師の出し物は、得意ネタ『天狗裁き』と、この頃よく高座にかけていた『阿弥陀池』でした。

まだ米朝師が人間国宝に認定される前で、その日のことは30年以上経っているのにも関わらず、はっきり覚えています。学校の宿題の自由日記にも、興奮してレポートを書いたものです。米朝師は、まさに円熟の話芸という表現がぴったりでした。

そして、このときにご本人の著作『米朝ばなし~上方落語地図~』の文庫版にサインしてもらったものを、今も持っています!

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さて、小学校高学年からは本格的に音楽に入れ込んだこともあり、進んで落語のネタを繰ったり、人前で披露したり機会は減ったものの、マイブームとしての上方落語は常にキープ(!)していました。

大学受験前にも関わらず、貯金をはたいてCD40枚組からなる『特選!米朝落語全集』を一括購入。さらには、大学進学が決まって単身上京してからの最初の大きな買い物が、神保町のレコード店でLPの『桂米朝上方落語大全集』を、中古で全て買い揃えたこと。後者は当時の価格で12万ほどしたと思います。さすがに落語好きの親にも呆れられました。

その頃、米朝師が出演するテレビやラジオの番組はまめにチェックするようにはしていたものの、単身で独演会・一門会に出向くまでの余裕はありませんでした。奇しくも、米朝師が東京歌舞伎座での独演会をもって、高座での第一線を退いたのは、私が上京したのと同じ年でした。

東京を離れてスイスに留学した後も、米朝師の新しいCDがDVDが出るたびに手に入れて、繰り返し楽しんでいました。2012年夏の帰国時には、「米朝アンドロイド」の開発が話題になった、米寿記念の展覧会にも足を運びました。

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実はこの頃、ご本人はだいぶ弱っていて、公の場に出ることもめっきり少なくなっていくのですが、敢えて自らの「老い」をさらけ出すのを厭わず、「芸人」としての開き直りを見せたのでしょう。もっとも晩年には落語家として初の文化勲章も受賞し、その前から一介の芸人というよりは、日本を代表する文化人という扱われ方になっていました。

米朝師の功績としてはまず、「上方落語中興の祖」という故・立川談志師による評が示す、戦後すぐに相次いだ実力派落語家たちの死とその後継者不足で、滅びかけていた上方落語の復興に全力を尽くしたことが挙げられます。
ほぼ演じ手が途絶えていたような演目も、先輩や古老から熱心に聞き取りを重ね、場合によっては古い文献や僅かな記録を頼りにして復活上演させました。一方で、口座にかける際は現代の視点で新たなギャグを考えて挿入したり、自作の『一文笛』をはじめとする新作落語も手掛けました。

さらには得意の漢籍の素養を活かし、歌舞伎・浄瑠璃・義太夫・能・狂言などを含めて、日本の伝統諸芸能から、寄席演芸一般を対象とする研究家・著述家でもありました。テレビタレントとしても売れていた40代前半の頃、他に先駆けて「ホール落語」を開いてから、ますます落語家としての活動を活発化させますが、それらの高座活動と並行して、自分の親や師匠が死んだのと同じ55歳という年齢に自らタイムリミットを課し、そこに達するまでに一連の著作や記録媒体を残すことに打ち込みました。並大抵のエネルギーでできることではありませんね。

米朝師は対談の名手であり、これまでに対談集も多く出版されています。これは没後に出た対談集。

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そして「八十八(やそはち)」の号を持つ俳人でもあり・・あの岩波書店から句集も出ているのですよ。

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いやはや、確かに落語家であることを越えて、文化人ですね。
亡くなって、改めてその偉大さを思い知らされました。

実は米朝師の生まれは旧満州、育ちは播州姫路(落語『皿屋敷』の舞台ですね!)です。大学時代は東京で過ごしています。
生前の端正な語り口からは、いわゆる「あくの強い関西弁」とは無縁の印象を受けると、何より上方落語を「研究の対象」にできたのは、大阪言葉や京言葉を、それを取り巻く文化も含めて、客観的に外から眺められる環境にいたのが幸いしたのではないかというのが、生前の米朝師とも関わりの深かった落語作家の小佐田定雄氏による評です。
なるほど、言い得て妙かもしれません。米朝師の一連の活動からは表現者である以上に研究者、という側面が強く感じられます。

当然のことながら後進の指導にも熱心で、亡くなるまで破門者を一人として出さなかったというところに、厳しいながらも人格者としての一面が垣間見られます。

ただ惜しむらくは、桂枝雀師(1938~1999)そして桂吉朝師(1954~2005)といった、期待を込めて見守っていたはずの優秀な弟子たちが、落語家としてまさにこれからという時期に早世し、古希を迎えてからの米朝師の気力面での衰えを、結果的にさらに加速させることになってしまったことです。
米朝師自身が強く影響を受けた昭和の名人、三遊亭圓生師(1900~1979)のように、最晩年まで芸をキープし続けるということは叶いませんでした。
逆に言えば、そうすることがどれだけ大変か、ということでもあります。

小学生のときの奈良での落語会で、枝雀師とともに生前唯一の高座に接したことを書きましたが、それと近い時期に収録された『枝雀寄席』における愛弟子との対談において繰り広げられた師弟による芸談は、何度見直しても興味深いものです。

米朝師は当時の落語界で年長の立場になってきたゆえに、
「メートル原器のようなものに、嫌々ながらなっている」
「本当は手本になんかなりたくない」
と、正直な気持ちを吐露していました。

米朝師の口から発せられた落語論、いや芸論一般は、演奏家・表現者としての私に、多大な影響を及ぼしています。
おそらくは今後も、米朝師の文章や発言をことあるごとに引用することになると思います。



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