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【コンサル物語】最強のコンサルティング会社を目指して(アーサー・アンダーセンの1960年代)

1960年にはBig8(ビッグエイト)のなかで売上2位にまで大躍進したアーサー・アンダーセンですが、その勢いは1960年代も止まることはなかったようです。

Big8ランキング(1960年)
※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

参考資料:『闘う公認会計士』

アーサー・アンダーセン会計事務所はエンロン事件を経て2002年に消滅していますので、ご存じない方が多いかもしれませんが、コンサルティング部門は1942年に会計事務所内に設立され、1989年の分社化後アクセンチュアとして存続しています。

数字を見ると1960年代の拡大の凄さが分かります。1960年代のアーサー・アンダーセンの売上、パートナー数、社員数の変化はこのようになります。(パートナーとは、パートナーシップ形態の組織における最上位タイトルであり、経営に参画する人々を指します)

『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』『アーサーアンダーセン崩壊の軌跡』から作成

この数字は、会計事務所での監査・税務・コンサルティングの全ての領域を含んだ数字です。ちなみに、1950年代の終わりから1960年代の間、コンサルティング・サービスはアーサー・アンダーセン全体の売上の約20%を占めていました。他のBig8会計事務所のコンサルティングの割合が10%に満たなかったことと比較すると、アンダーセン社がいかに突出していたかが分かります。

アーサー・アンダーセンは1970年代に世界最大のシステムコンサルティング会社になりますが、直前の1960年代にアーサー・アンダーセンがコンサルティング部門強化のために行ったことを二つご紹介したいと思います。

一つは、コンサルティング部門として統一性・一体性を強化しファームにとって非常に重要なレバレッジ(パートナー数とスタッフ数の比率)を向上させたことです。

アンダーセン社は当時既に生産管理・原価計算・オペレーションズ・リサーチ等の八つものコンサルティング分野を社内に持っていました。ただ、各分野のパートナー達は各分野の専門家として独自の流儀を取るためまとまらず統一性が不足していました。5年後、10年後を見据えたコンサルティングとして統一した戦略を立てる必要がありました。

業務に統一性をもたらすため、幹部達は「アーサー・アンダーセン方式」に従ってコンサルティングの各分野を教えるガイドブックを作成した。これにより、アンダーセンは、ある仕事に世界中のどの事務所のコンサルタントを派遣しても、同じやり方で仕事をすることができるようになった。

『ビッグ・シックス』

アーサー・アンダーセンのこのやり方は、時にアーサー・アンドロイドと揶揄されることもあったようですが、アンダーセンがコンサルティング売上を拡大することに貢献したのは間違いないようです。

コンサルティングに戦略的統一性を持たせるために、アンダーセン社は更に手を打ちました。コンサルティング案件をすべてコンピューターを共通とするもので徹底したことです。

1960年代、他の大手会計事務所は当時経営コンサルティングのBig3と呼ばれていたブーズ・アレン・ハミルトン、マッキンゼー、クレサップ・マコーミック・ペイジットの真似をしようとしていましたが、アンダーセン社はシステムコンサルティングに絞ることで、一人のパートナーが大勢のスタッフを管理できる仕組みを強化しレバレッジを高めました。

アンダーセン以外の大手会計事務所のほとんどは、マッキンゼーやブーズ・アレン・ハミルトンがしているような戦略的計画タイプのコンサルティングを真似しようとしていたが、アンダーセンは大規模なコンピューター・システムの仕事に焦点を当てていた。

このことは、ライバル事務所に比べ、アンダーセンのレバレッジを一段と高めることになった。戦略的計画の仕事には、パートナーが相当深く参画することが必要なので、レバレッジが低くなる。しか し、アンダーセンのコンサルティング部門は、その逆であった。そこでは、大勢のスタッフが大部分 の仕事をして、パートナーの参画が少なくてすむので、レバレッジを大幅に高めることができた。

『ビッグ・シックス』

アンダーセン社のコンサルティング戦略は、同社を最強のシステムコンサルティング会社に高めただけではなく、会社の売上にも多大な貢献をし非常に成功しました。

アーサー・アンダーセンは、大勢のコンピューター専門家からなる巨大なSWAT隊としてコンサルティング業務を行っていた最初の事務所であったため、すぐにデータ・プロセシングの「海兵隊」(米国最強の軍隊)の異名を取るようになった。

『ビッグ・シックス』

そんな好調なアーサー・アンダーセンは1960年代初めに、後々の事務所の運命に関わる重要な決定を行っています。これが二点目です。

それまでの社内ルールでは、アンダーセン社でコンサルタントになるためには、入社後最低2年間は監査部門に勤務し会計士としての仕事、しきたり、伝統を身につけることが求められていました。ルールの意図するところは、アンダーセン社のプロフェッショナルの一員として認められるためには、会計士のように考え、行動しなければならない、というところです。それまでは、アーサー・アンダーセンはあくまで会計事務所であるということを強く主張していたのです。

このルールが廃止され、コンサルタントとして入社したものは監査を経験することなく、すぐにコンサルティングの仕事を始めることができるようになり、様々なメリットがあったことは確かなようです。しかし、アーサー・アンダーセンという会計事務所が共通の価値観としていたもの(=会計士のように考え、行動すること)がなくなり、監査部門もコンサルティング部門も互いに我が道を行くという結果につながっていきました。

アンダーセンは、後々の事務所の運命に関わってくるような重要な決定を行った。
(中略)
アンダーセンがルールを変えたのは、コンサル ティング部門に移るのが分かっている新人を監査実務を通して研修することに対し、監査部門の不満が強かったためだという。
(中略)
結果として、アンダーセンは余計なことをしてしまった。時が経つにつれ、一大勢力に成長したアンダーセンのコンサルタントたちは、監査部門の同胞たちと共通なところを何も持たなくなった。
(中略)
互いに自分の分野だけに専念し、他方の側の考え方や生き方を知ろうという意欲はほとんどなかった。かつては互いに仲間意識を持った二種類のプロフェッショナルがいたのに対し、今や互いに我が道を行く二つの党派が存在するのであった。

『ビッグ・シックス』

1960年代の初め、 アーサー・アンダーセン事務所はある重大な意思決定を行った。 
(中略)
この意思決定のもつ意味は重要である。 それは、コンサルティングスタッフにとっては、監査実務は 「未知の領域」となってしまったからである。 彼らは同じ事務所の「会計士の友人」を失ってしまったのである。

『闘う公認会計士』

1960年代当時、アーサー・アンダーセンだけではなく、他のBig8会計事務所においても、このコンサルティング部門の扱いに悩んでいたところはあったようです。プライス・ウォーターハウス(後のPWC)は会計士が支配する事務所運営を続けるため、アンダーセン社とは違いコンサルタントをしっかりコントロールしていました。

アーサー・アンダーセンが決定したルール変更の効果は絶大で、後に同社がコンサルティングの覇者となっていくきっかけの一つとも言われています。ただし、このときから社内には監査とコンサルティングという2つの潮流がうまれ、両者の間に亀裂が生じ始めてしまいました。

この亀裂は次第に大きくなり、最終的には四半世紀後にコンサルティング部門が分社化するという結果に繋がっていきました。冒頭にお話しした1989年の分社化によるアンダーセン・コンサルティング社の誕生、2000年のアクセンチュアへの社名変更へと会社は分裂していきました。

(参考資料)
『THE FIRST SIXTY YEARS』(ARTHUR ANDERSEN)
『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』(S・E・スクワイヤ/C・J・スミス/L・マクドゥーガル/W・R・イーク 平野皓正 訳)
『ビッグ・シックス』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・長沢彰彦 訳)


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