見出し画像

【コンサル物語】アメリカン・コンサルティング②(19世紀末〜20世紀初頭の会計コンサルティング)

 19世紀末、アメリカ社会は経済活動の多様化を受け、新たな中産階級の登場やホワイトカラー事務職が急増しました。『アメリカの歴史』(有賀夏紀・油井大三郎 編)では次のように説明されています。

都市化が進み、巨大株式会社が誕生し、専門化が進行する19世紀末になると、企業の会計・販売担当の事務職や管理職、技術者、法律家などのインテリ層が中産階級に加わった。

市場経済の浸透は、より多くの所得を求める女性の労働参加を促した。経済活動の多様化に伴って、これまであったブルーカラー的な職種のほかに、店員、タイピスト、帳簿係、事務員、といったホワイトカラー事務職が急増し、それらの多くが女性によって占められた。 1910年には就業する女性数は760万人、女性全体の中の労働参加率は20%に近くなった。

『アメリカの歴史』(有賀夏紀・油井大三郎 編)

 また、企業のオフィスは新たなホワイトカラー層が登場しただけではなく、アメリカという土地柄からオフィス事務作業の機械化が急速に進んでいきました。このオフィス革命は特に会計分野において顕著であり、会計士がコンサルティングを推進することになった歴史的背景の一つと考えることができると思います。19世紀末のアメリカでオフィス革命が進んだ背景を『コンピューター200年史』では次のように説明しています。

19世紀末における事務機器の氾濫は、まったくアメリカ社会だけの現象だった。ヨーロッパでは20世紀になるまでこのようなことは起こらなかったし、大多数のビジネスでは第一次世界大戦の後までそうはならなかった。

アメリカの事務機器に対する愛着には2つの理由がある。 第1はヨーロッパに比べてアメリカのオフィスが遅れてスタートを切ったことがあげられる。したがって旧式なオフィス、 昔風に固まった業務手順を引きずりながら前進するというハンデは背負っていなかった。もう一つは、アメリカ人がひどく機械好きで、機械化されたオフィスの魅力に抵抗できなかったからだ。アメリカの会社はしばしば事務機器を、ただそれが目新しいというだけの理由で購入している。

新しいタイプの科学的管理者は、オフィスの再構築を推進した。タイプライターと加算機の導入、複式記帳とルーズリーフを使うファイリングシステムの採用、旧式な大福帳方式から機械式勘定書作成システムへの移行などなど。これらの新しいタイプの科学的管理者は今日の情報テクノロジー・コンサルタントの前身であった。

『コンピューター200年史』(M.キャンベル・ケリー/W.アスプレイ 著 山本菊男 訳)

 前回ご紹介した、プライス・ウォーターハウス会計事務所が20世紀初頭に関わったコンサルティング案件の中に、会計システムの導入というものがいくつかありましたが、恐らく、上記に記載したようなオフィス再構築をイメージしていただけるといいのではないかと思います。

 すなわち、手書きの契約書や請求書などのビジネス書類の作成を、タイプライターを使った作成へ変えることで、書き手の癖はなくなり文字や数字の読み間違い、それによる帳簿記載ミスは各段に減ります。また、加算機(初期の計算機)も同様で、伝票の計算であったり帳簿の集計やチェックにおいて、人手で起こっていたミスと人手でかかっていた作業時間を同時に減らすことができ、会計業務を一気に効率化させたことだと思います。

 あくまで個人の想像の域は出ませんが、当時の会計事務所によるコンサルティング・サービスとして、当たらずとも遠からずではないかと思います。

 さて、ここからは当時のオフィス機械化を担っていた事務機器のうち、タイプライター・加算機・キャッシュレジスター・パンチカードシステムの4つの歴史について詳しくご説明したいと思います。

 1つ目はタイプライターです。
 
 タイプライターは事務機器の中でも導入時期が早く、1870年頃から各方面への導入が進んでいました。それまでの手書き文書を機械化することによって、ビジネス文書を書く時間と経営者がそれを読む時間の両方が何倍も速くなり、ビジネスのスピードが急速に上がる結果になりました。そして、タイピングができる人(特に女性)が求められ、女性の職業選択肢の一つとなったと位置づけられています。当時の代表的な会社の中にレミントン社がありました。1874年にレミントン社はタイプライターの最初の商用化に成功しています。

(参考)レミントン社 1907年頃のタイプライターwikipediaより

 2つ目は加算機です。

 加算機は計算を行う機械で、タイプライターより少し後の1880年代に出てきています。一般事務用の加算機は手書きよりも速く数字を入力でき、入力すると同時に紙に印刷するという機能を備えていました。

 加算機の代表的な会社にはバローズ社がありました。バローズ社は20世紀に入るとセールスを驚異的に伸ばし、1904年には年間4500台を生産、1年もたたないうちに年間生産量は8000台にまで増え、3年後には年間1万3000台を売り切っていました。

(参考)初期のバロウズ社加算機wikipediaより

 バローズ社がこれほどの加算機を販売できた理由として、加算機を売るだけではなく、それを顧客の業務にどのように組み入れるかというノウハウ・サービスも提供していたことが挙げられます。ビジネス面の経験を積み重ね、やがてバローズ社は機械と一緒にビジネスシステムを売る会社になり、2つの大戦を経て、加算機を超えた完全な会計機械メーカーとなったと評価されています。

 アメリカで加算機産業が発達した背景には国内での累進税率の適用であったり、給与の源泉課税など、1913年に導入された新しい税制も引き金の一つになっているという考えがあります。その後の第一次世界大戦中にもアメリカでは法人税が拡大され、それに伴う事務量の増大により加算機の需要はいっそう拡大したようです。また、新しい税制の導入は、機械産業の発展だけではなく、会計事務所が税務アドバイスのサービスを新たな事業として展開していくことにも大きく影響しました。

 3つ目はキャッシュレジスターです。

 売上金を管理するこの機械により、店員が売上をちょろまかすのを防ぎ、売上集計が簡単にできるようになりました。代表で紹介する会社はもちろんナショナル・キャッシュ・レジスター社(NCR社)です。

 1884年に事業を始めたNCR社は、2年後に既に年間1000台以上の機械を売り上げています。さらに1900年には2500人の従業員を擁して年間約2万5000 台のキャッシュレジスターを販売し、1910年には従業員5000人で年間10万台、そして1922年には200万台のレジスターを売り上げていました。

(参考)初期のキャッシュレジスターwikipediaより

 その後の話を少しすると、NCR社は製品を多角化して会計機械の分野に進出していきます。1926年に発売を開始したクラス2000会計機は、送り状の発行、給与計算をはじめ、あらゆる業務を網羅した会計機能を持ちます。これは、当時市場にあったいかなる会計機にも引けを取らず、バローズ社の会計機とも完全に対等でした。

 コンサルティングとも関係するのでNCR社についてもう少し話します。この会社が事務機械で行った最大の功績は、この産業での機械の販売方法を生み出したことだと言われています。機械の販売は、顧客ニーズの分析・アフターサービスの提供・ユーザーのトレーニングによって強化されるという販売方法です。これはNCR社が1890年代に開発し、その後のコンピューター/情報システム産業で繰り返し実践されてきました。

 最後はパンチカードシステムです。

 このシステムはパンチカードに打ち込まれた穿孔(穴)を読み取り、集計結果を表などに印刷する機械です。電子コンピューターが世の中の主流を占める20世紀中頃まで会計システムの中心を担っていたものでした。

 他の機械に比べパンチカードシステムの普及は遅く、1905年には、タイプライターと加算機産業は大きく成長していましたが、パンチカードシステムはまだまだこれからの産業でした。世界中にタイプライターは100万台、加算機は何十万台も普及していたのに比べて、 パンチカードシステムは数えるほどしか設置されていなかったのです。

 パンチカードシステムの代表として紹介する会社はタビュレーティング・マシン・カンパニー社(TMC社)です。TMC社は1908年までに30社の顧客を獲得しました。それに続く数年間、会社は半期に20パーセントの割合で成長を続け、1911年には顧客数は約100社に達しました。

(参考)タビュレーティングマシーン(上)とパンチカード(下)wikipediaより

 このシステムが使われていたのは、製鉄所、保険会社、鉄道等の当代きっての産業から、地方自治体、政府機関とあらゆる企業に渡っていました。労働コストの記録、販売の分類、原材料の調達、生産の統計等の様々な集計に使われ、保険のリスク計算、企業の経費や公共サービス部門の業務分析等でも活躍しています。売上やコストをセールスマンや部門、 顧客、地域、商品等、他いろいろな分野別に分類することもできたので、 このシステムが無かったらかかったであろう膨大な時間に比べると、ほんのわずかな時間で結果を得ることを可能にしました。

 以上のように、タイプライター・加算機・キャッシュレジスター・パンチカードシステムの普及により、19世紀末から20世紀初めのアメリカでは、事務作業や会計業務の機械化が急速に進み、そこには民間企業や国、自治体向けに会計システム機械化の導入支援をコンサルティングサービスとして展開する会計士達がいました。

 それでは最後に、事務作業機メーカー各社のその後に簡単に触れておきたいと思います。というのも、この半世紀後の20世紀半ばにアメリカの大手会計事務所がコンピューターを使ったコンサルティング事業に進出するとき、各社の製品と再び深く関係してくるからです。

 タイプライターのレミントン社はいくつかの事務機器メーカーとの合併を経て、第二次世界大戦後にアメリカ最初の商用コンピューターであるUNIVACを販売します。加算機のバローズ社は会計機の事業を拡大し、同じく大戦後にメインフレームコンピュータのメーカーとなっていきます。そして今はユニシス社として知られている会社になっていきます。バローズ社はその過程でレミントン社を買収します。

 キャッシュレジスターのNCR社はその後POSシステムや銀行ATM機でも有名になり、コンピューターメーカーとしての地位を築いていきます。

 パンチカードシステムのTMC社は1911年にコンピューティ ング・タビュレーティング・レコーディング社(CTR社)という新会社の一部門になり、1914年にトマス・J・ワトソン・シニアを社長として迎えます。そして1924年にワトソン氏は会社名をインターナショナル・ビジネス・マシンズ社(IBM社)に変えて、ご存知の通りコンピューター産業の伝説となっていきます。

(参考資料)
『アメリカの歴史』(有賀夏紀・油井大三郎 編)
『コンピューター200年史』(M.キャンベル・ケリー/W.アスプレイ 著 山本菊男 訳)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?