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【コンサル物語】Big8(ビッグエイト)の勢力図が変わった1950年代

1960年、フォーチュン誌に掲載された30年ぶりの業界プロフィール(会計事務所編)は業界関係者を驚かせました。

Big8ランキング(1960年)
※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

『闘う公認会計士』

前回1932年のランキングからアーサー・アンダーセンが大躍進(最下位→2位)する一方、1890年のアメリカ事務所設立以来、アメリカ国内で圧倒的な地位を築いていたプライス・ウォーターハウスが、ピート・マーウィック・ミッチェルに首位を明け渡し、4位にまで転落していました。

この事実を突きつけられたプライス・ウォーターハウスは、ピート・マーウィック・ミッチェルとアーサー・アンダーセンの2社について、新しい戦略で成功を収めたと評しました。

戦後のビジネス環境の中で、新たなビジネスチャンスを見出した一部の大手会計事務所は、従来の慣習にとらわれず、全く新しい成長戦略に着手した。アーサー・アンダーセンとピート・マーウィック・ミッチェルはその最たるものだ。アンダーセンは早くからコンサルティングを強化し、専門性を高めることを選択し、ピート・マーウィックは合併による成長計画を採用した。両者とも顕著な成功を収めた。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

アーサー・アンダーセンは第二次世界大戦中からコンサルティング・サービスの成長の土台を築き、1950年代にはUNIVAC(ユニバック:初期の商用コンピューター)の導入コンサルティング等を経て、システムコンサルティング事業を積極的に展開しました。そして、ピート・マーウィック・ミッチェルはアメリカ最大の会計事務所になるまで、小規模会計事務所との合併戦略を繰り返しました。1950年代の同社の合併は53件に上りました。

ここではアーサー・アンダーセンのコンサルティング強化の背景にある、同社の特質に迫ってみたいと思います。

プライス・ウォーターハウス社から見たアーサー・アンダーセン社の姿にはその一部が垣間見られます。

アーサー・アンダーセンはこの時期、主要な会計事務所の中で最も特徴的な、そして恐らく最も過激な戦略を採用した。プライス・ウォーターハウスの経営陣は、アンダーセンの自己主張の強さを認識せざるを得なかった。
第二次世界大戦後の数年間、アンダーセン事務所は飛躍的に拡大し、プライス・ウォーターハウスと競合して優秀な大卒者を採用した。そして、高い給与と、パートナー昇進への早道が提供されることも多かった。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

アーサー・アンダーセンの自己主張の強さというのは、1913年のシカゴでの会計事務所設立時から顕著に見られるものでした。事務所設立者であるアーサー・E・アンダーセン氏は、設立当初から、会計士は積極的に経営者をサポートすべきだという強い意思を持っていました。

アンダーセンは、会計士が顧客に提供する最も重要なサービスは監査済財務諸表の提出で終わるのではなく、むしろそこから始まると考えていた。監査人が数字の背後にある営業の実態に目を向けるならば、経営者に役立つ建設的な報告書を提供することができる。アンダーセンはこう考えていた。

『闘う公認会計士』

会計士の本業と言われる財務諸表の監査だけではなく、経営改善のためのコンサルティングもやるべきだ、というものです。コンサルティング業務を会社が提供するサービスの一つにすることが、事務所の設立趣意書に明記されていることからも、その強い意志が分かります。

一方で1910年代〜20年代の当時において既に、会計事務所がコンサルティング・サービスを提供することは、利益相反になることから議論が起きていました。

会計士業界には2つの考え方がある。 エキセントリック派とコンセントリック派である。エキセントリック派は、アグレッシブで顧客の要求があればそれが会計職業に関係あるなしに関わらず、新しい領域にも進出する構えである。コンセントリック派は、「人は自分の仕事に専念すべきだ」を モットーにしている。

エキセントリック派のリーダーはアーサー・アンダーセンである。 コンセントリック派の代表は、プライス・ウォーターハウスである。プライス・ウォーターハウは、次のように警告する。「会計士業界の活動を絶えず拡大することを助長するような現在の風潮は多くの危険に満ちている。」

『闘う公認会計士』

業界の重鎮であったプライス・ウォーターハウスの会長から、過度にコンサルティングを拡大すべきではない、という旨の忠告を受けたアーサー・アンダーセン氏ですが、忠告を無視しコンサルティングを拡大し、成功していきました。

皮肉なことに、アンダーセン氏は、会計士のキャリアをプライス・ウォーターハウスのシカゴ事務所からスタートさせています。真面目で積極的な性格と、仕事にすべてを捧げる人物だったようです。設立者の積極的な性格は、そのままアンダーセン会計事務所のビジネススタイルにも現れていたのでしょう。

1947年1月にアーサー・アンダーセン氏が死去(享年61歳)した後も、後を継いだ歴代トップは積極的に仕事を取りに行きました。アンダーセン社のやり方は露骨で強引な部分もあったようですが、顧客から依頼があればどこにでも参上する、そのような意思で動いていました。プライス・ウォーターハウス社(PW)とアーサー・アンダーセン社(AA)のトップ同士のやり取りにそれが顕著に現れています。

PW:「レナード、私はあなたがU.S.スチール社を訪問するのはあまり好きではありません」
AA:「ジャック、私は依頼があればどこでも訪問するよ」
PW:「しかし、8人ものパートナーを連れ立ってくる必要があるのでしょうか?」

『ACCOUNTING FOR SUCCE』

USスチール社は、当時アメリカで最大の鉄鋼会社であり、19世紀初頭から半世紀以上に渡ってプライス・ウォーターハウス社の監査クライアントでした。そのことはプライス・ウォーターハウス社がブランドを確率できていた一つの理由でもありました。経営陣総出で、ライバル社の重要クライアントを奪いに行くような事は、見方によっては、相手への敬意を蔑ろにするものでしょう。

良くも悪くも、アーサー・アンダーセン社はこのような積極的な行動で、他のBig8から顧客を奪っていくこともあったようです。その結果、1980年の業界ランキングでは、ピート・マーウィック・ミッチェルを抜き、遂に全米ランキング1位に上り詰めます。

さて、アンダーセン社の積極的な展開は、社内の会計監査部門とコンサルティング部門がバランス良く伸びている間は問題なかったようです。ところが、途中から、監査部門が停滞しコンサルティング部門との勢いの差が明らかになってくると、社内に不協和音が出始めてきました。その結果はコンサルティング部門の独立(後にアクセンチュアに改名)となるのは、多くの方が知っている歴史の事実ですが、それはまだ少し先の話になります。

(参考資料)
『闘う公認会計士』(千代田邦夫)
『ACCOUNTING FOR SUCCESS』(DAVID GRAYSON ALLEN / KATHLEEN MCDERMOTT)
『アーサー・アンダーセン消滅の軌跡』(S・E・スクワイヤ/C・J・スミス/L・マクドゥーガル/W・R・イーク(共著) 平野皓正(訳))

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