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Real Estate 『Daniel』 (2024)

9/10
★★★★★★★★★☆


春の風は迎える者への駆け足ではないし、拒む者への面当てでもない。自ら来て、自ら往く、自然の意だ。物憂げに俯く者の心うちなど遠慮無しに通り過ぎ、春の街へと吹き込む。草原を走る春の水は幅を変えながら春の海へと流れ込む。私たちがいてもいなくても、春の風は変わらず海を越え世界を意のままに吹き渡る。いつまでも。

本作が珠玉のギターポップであることは論を待たないが、何より歌詞が私の理想に近いものであったので、私の中のイメージと合わせながら以下に意訳していきたい。この歌詞をこの音で歌ってしまうセンスに脱帽している。

何物も変わらずにいることは叶わない。来たるものへの門戸を開けておく。それが自分にどのように作用するのか、未到のうちに言い当てることは出来ない。木々の間から差し込む日の光がゆっくりと私を殺していく。月光が夢の中で私に語り掛ける。夢が朽ちていく。目を覚ますと春の陽気が私を包む。この呪われた世界が私を殺していく。

私は遠くない町からここへ来た。頭の中で何かが囁いている。何を言わんとしているのか判別が付かない。地下水が降りかかる。私を落ち着かせてくれないか?洗い流してくれないか? 眼前にある正しさを掴むのは容易ではない。頭の中の恐怖がなくなることはない。もはや私のものなのかどうかも分からない。

11月に河岸をドライブする。無謀だって構わない、朝の光が射すまでここから消えてしまおう。過去から変わらない町。この病んだ空気が私を包む。今私たちがどこにいるのか教えてくれ。霧が草の上で霜になる。形は変わっても本質は変わり得ない。お願いだから何も言わないでくれ。今は何も。

私が何かを問う時、答えはいつも海だ。世界が目の前で無限に広がっていく。白旗を掲げよう。太陽が沈んでいくのを眺める。これほど満足したことはない。忘れることはないだろう。太陽が沈んでいくのを眺める。これほど満足したことはない。忘れることはないだろう。太陽が沈んでいくのを眺める。これほど満足したことはない。忘れることはないだろう。

何を聞きたい?何を言えばいい?私たちは光であり、闇だ。炎であり、塵だ。夜に空を見上げる。消えてしまいたい。簡単ではないと分かっている。私たちはここにいる。私が独りの時、あなたのことばかり考えている。夜に空を見上げる。私たちは塵で出来ている。私たちはここにいる。

最後に、私の好きな夏目漱石の文章を引用しておく。漱石の理想とする出世間的な詩世界に共通する感性を、本作『Daniel』の詩世界は含んでいるように感じたのだ。それは現代ポップミュージックシーンの俗念的/社会的詩世界とは真逆に位置するものであって、私は前者を強く支持する。

     苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。
     ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
     うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。

『草枕』



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