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生きている幸せ

みなさまのハートやコメントに、とてもうれしい気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

初投稿で、生きる意味について、谷川俊太郎さんの詩を紹介させていただきました。意味ではなく、存在していることが大事だと気付かされました。

また、谷川さんは、ある本の中でこう仰っています。

ときどき思う、
死んでからヒトは、生きていたことが、
生きているだけでどんなに幸せだったか悟るんじゃないかって。

生きていることが当たり前になってしまって、今ここにいることがどんなに幸せなのか、忘れてしまうことがあります。

でもいつでもこの当たり前が幸せなことなのだと思っていたし、大切にしたい。

今日は谷川さんの「朝」という詩をご紹介します。




「朝」谷川俊太郎

また朝が来て僕は生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを

百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前の所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ

いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって

それからやっとぼくは人間になった
十ヶ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから

今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
僕を殺すかもしれないけものとすら
その水をわかちあいたい 




「百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前の所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ」

この部分を読むと、生きているという当たり前なことが、思いがけないこととして見えてくるのです。

火があって
水があって
空気があって
木があって
月があって
地球があって
わたしがあって
あなたがいる

存在することの素晴らしさをいつまでも忘れずにいたい。
生きていることがどんなに幸せなことか、いつまでも忘れずにいたい。

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