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オンガクのはじまりをみる、きく。イスラエル・ガルバン『春の祭典』

 ほとんど衝動的に、圧倒的な「響き」の中に身を浸したくなりイスラエル・ガルバンを当日券で鑑賞した。ツイッターでの前評判は気になっていたものの、当初は高齢者が身近にいることを理由に静観していた。しかし夏至も間近の今日、自分の中に陽のエネルギーが極まったか、どうしてもガルバン版を「今」観ておきたいと思った。先が見通せない時代には「次」が二度とめぐってこないかもしれないのだ。
 どちらかと言えばフラメンコよりも、舞台装置や演奏にピアノが使われていることが動機のひとつだったが、もともと『春の祭典』は大学時代に初来日したピナ・バウシュ版との出会いが自身の方向性を大きく変えたように、特別な示唆に富む作品だ。申し訳ないがイスラエル・ガルバンが最大の目的ではなかったともいえる。
 しかし結果的に、卓越したひとりのフラメンコ・ダンサー、というよりもひとりの人間の存在の尊さに圧倒されるような体験となった。フラメンコだけでなくオンガクの世界も拡張する。総合芸術として奏でられるガルバンの身体。鍛えられた足の動きはどこまでも音楽的で、生命力に溢れた美しさがあった。フラメンコの由来には諸説あるが、力強く踏み鳴らされる大地の音が場内を響かせるたびに、インド舞踊とのつながりを感じた。それはロマ(ジプシー)の由来にたどり着く。

 暗闇からはじまる冒頭の響き。足で奏でられるその音をきいた瞬間、絵画だけでなくオンガクのはじまりも、やはり洞窟の中だったと直感する。いや、闇の中では音が先にあったはずだ。洞窟の闇に響く足音、衣擦れの音、声、そして息。足裏の感触を確かめながら丁寧に音の肌理の変化をきくガルバンの耳。身体性を促す音がふと消えて動きだけが残った瞬間、そこに「踊り」が誕生する。
 学生時代に訪れたアンダルシアの洞窟。深夜のフラメンコ。狭い店内に響き渡る女性ダンサーの足音、手拍子、男性たちの歌声。繰り返し翻されるスカートの裾。静寂の中で響く衣擦れの音が想起する記憶のオンガク。私はこの記憶を忘れていたわけでなく、奥底にしまい込んでいたのだ。なぜ今日まで思い出さなかったのか。忘れることと思い出さないことは同じだろうか。

 フラメンコはコミュニティで育まれ、土臭さや生命力のみならず、現代はクラシックバレエに通じる洗練された身体も持ち合わせている。ガルバンの「春の祭典」は、卓越した技術を駆使して、限りなく音楽の演奏に近づく。そして両者の世界を拡張する。音楽がオンガクになる。特に音響装置としてのアップライトピアノの使い方に心躍る。2台のピアノが奏でる楽曲との距離感も好ましい。音楽の上に乗るのではなく、音と対等に奏でる。足を多用する演奏方法はピアニストにはなかなか考えつかない(か、躊躇する)アイデア。やはりガルバンはフラメンコ・ダンサーだ。聖と俗を行き来する。
 一方で、ふと訪れる静寂も印象的だった。舞台から音が消えると会場全体(の身体)が音のない世界の消失点に集中する。シーンという音がきこえるようなサウンド・オブ・サイレンス。その無音の中で繰り返されるガルバンの手の動き。そこに身体のオンガクから枝分かれした「言葉」が生まれる。それは手話なのかもしれない。
 何より手と手を叩く「拍手」は世界共通のボディランゲージだと再認識する。終演後、客席からは無言で最大限の感謝と賛辞が届けられた。私も惜しみない拍手を送った。「拍手」という行為と自身の気持ちが一致するときはとても気持ちが良い。飛沫が飛ばないコミュニケーション、素晴らしい。
 来日から2週間の隔離期間もコンディションを整え、期待通りに期待に応える芸術家ガルバンの凄み。しかし決して堅苦しくないのは、フラメンコがsそもそも生活の内側から生まれた芸術だからだ。アンダルシアの子どもたちは手遊びや歌遊びの中で、フラメンコ独特のリズムを身体に刻み込んでいく。ガルバンの身体からほとばしるリズムも、外側ではなく内側から生まれるものだった。それは洞窟でも舞台でも街の中でも、決して揺らぐことがない生命のリズムである。
 
 目できく、耳でみる、全身がひらかれる時間を体験したあとは、帰りの地下鉄構内に響き渡る足音がオンガクにきこえた。
 ストラヴィンスキー没後50年、春の祭典のリズム。この大変な状況下で公演を実現させた関係者全員の熱意にも感謝したい。古代洞窟からはじまった(と仮定する)人類の舞台芸術はコロナ禍くらいでは簡単に消えないのである。

コロナ禍で劇場が閉じられた際につくられた一連の動画もサウンドスケープ的で興味深い。洞窟から生まれたフラメンコは劇場がなくても生きられる。逞しい芸術なのだ。


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