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今朝、ふと足元を見ると予想外の福寿草が咲いていた。
 ちょうど1年前から半ば仕方なく始めた所謂”ガーデニング“は、どこか優生思想かつ人間中心主義的な感覚があるのでもやもやしていた。「庭」とは何なのか実は今ひとつよくわからないまま試行錯誤が続いている。参考にしようとイギリスの有名ガーデナーの哲学に触れてみると、憧れつつも心の奥底で言葉にならない反発も感じてしまう。「管理」という発想は罠でもある。なるべく簡単で合理的な庭を目指したくなる。育てやすく主張が強くない植物を選びたくなる。だからといって最近のコンクリートで固めた庭には寂しさも感じる。インスタやカタログで観たような庭には気恥ずかしさも感じてしまう。
 幼少期、野草の花や虫たちと一日中飽きずに遊んでいた身体感覚を思い出している。私は野原が好きだったし、そこで出会うミクロコスモスに夢中だった。だからこそ偶然性や即興性がとても愛おしく心が動かされる。正直に言えば、今もうちの庭より近くの自然森の方が落ち着くし好きである。
 それは結局、自分が惹かれる音楽と同じだなと思う。サウンドスケープ(音風景)の在り方と言うべきか。人間の意志で完璧に設計された現象よりも足元の小さな偶然の奇跡に心ふるえる。キノコが好きな理由もそこにある。ジョン・ケージはキノコは音楽であると言った。
 自然を想いのままに管理できると思うことなかれ。人間も自然の一部に他ならない。庭は私であり、私は庭なのだ。いやしかし、この福寿草はおそらく父が数年前に植えたものだとしたら、私はそれを「知らなかった」だけなのだ。私はこの庭のことをよく知らない。子供の頃から知っているはずのこの庭を、実はまだ何も知らないのである。

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