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メニカンbiweekly#7 短編について3 - 現場と短編 -

とある連載の続き*1のようなテキストになってしまうかもしれませんが、こうも現場にいる時間が長いと、現場の状況を目の前にしながら、あたまはそこを離れて、何か少し別のものについて考えてしまうこともあります。現場にてふと意識が向かう、断片的で、無意味で、それでもなんとなくまとまりのある思考。短編集のように、別々の事柄について、それらが何か関係があるかもしれないように、書き記しておこうと思います。

*1 - 「みえない線について現場から考える」では、「現場」という不思議な環境のなかで考えた、「写真」や「図面」に関するテキストを書きました。

天井伏図と建具図

図面を描いているとき、天井伏図と建具図は、何か他の図面とは別物のような気がします。どちらも少し目がまわるような感覚に陥るのは自分だけでしょうか?
おそらく見下げた状態を描く天井伏図を、現場では見上げなければいけなかったり、扉も表と裏があって、どちらもあちらに行ったりこちらに来たりしながら、描いたり見たりしないといけないところにその原因があるように思います。特に建具図は自分が左利きなこともあり、みんなが使いやすい開き勝手は、はたして自分が使いやすい方と同じなのか、それとも自分が使いにくい方なのか、ぐるぐると建具のあっちとこちらを行き来しながら、永遠に考え続けている気がします。

ミラノ風ドリアと未来のユートピア

何が違うんだろう あっちとこちら
探す気にもなれない未来のユートピア
やっぱ食えないミラノ風ドリア
Low Pass《Nos DIas》(2013)

「ミラノ風ドリア」と「未来のユートピア」が、併置されてしまうところに、hiphopのリリックの魅力はあるように思います。韻を踏む、というガイドラインのなかで、一見無関係にみえる単語が並べられたり、掛詞のように、ひとつの単語に複数の意味を持たせてみたり。短いなかに意味を重奏させる、というレトリックは建築でも援用できるかもしれません。

建築と文学

先日、都市とSFの会をメニカンで開催しましたが、建築的な文学だったり、文学的な建築というのはどういうふうに考えられるのでしょうか*2?
たとえば建築におけるシークエンスを物語になぞらえるのはそれほど難しいことではないかもしれません。そのときに、建築のスケールは物語のスケールとパラレルなのでしょうか。公共建築は長編、住宅は短編というように。そうすると、インテリアはたとえば俳句くらいに、高度な抽象性のなかで意味を重奏させるのに、向いているのかもしれません。

*2 - レクチャーでも紹介してくれた、津久井さんの『建築小説集』という短編集は新たな建築文学⇄文学建築になりそうな予感がしていて、いまからとても楽しみです。


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(Cover) 2021年9月3日
(Top) 2021年10月5日
(Bottom) 2021年10月26日
(Photo by Masafumi Tsuji)

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