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一本の棒を「相棒」とする事で、ヒトの脳は飛躍的に進化して来た

前回の投稿はこちら↓

前回投稿では「比類なきエスノ・サイエンスとしてのインド式エクササイズ」という主題を立てましたが、今回は私がどのような理由でインド棒術バーラティアを現代人向けエクササイズとして推奨しているのか、その拠って立つ基本的な人間観(身体観)を中心にお話ししていきます。
そこで重要な意味を持つのは、「人類が辿った進化の歴史」です。

《今回の投稿は現代人向けの汎用エクササイズ、という観点からのもので、スポーツや武術、アスリート向けなどにはまた違った文脈があり、これについては回を改めて詳述します》

脳科学や医学、発達心理学や老人介護・リハビリ等の世界では、よく【手は第二の脳】と呼ばれます。この時しばしば引き合いに出されるのが脳の中の小人あるいはホムンクルスと呼ばれるもので、以下のようなとてもいびつな姿形をしています。

左が感覚野、右が運動野を示す:Facebookより

これは人の大脳皮質運動野感覚野がどのように分布しているかを実験的に明らかにした「ペンフィールドの脳内地図」に基づいて描き出されたもので、各身体パーツのサイズ感がそのまま大脳皮質内に占める領域の広さを表しています。
上の画像を見れば一目瞭然ですが、大脳内に占める手指領域の広さは群を抜いており、手指は表面積では全身体のごくわずかに過ぎないにもかかわらず、大脳内ではその3分の1の領域を占める、と言われています。
つまり、手を使う事は直接的に脳の広範囲を活性化させる。故に【手は第二の脳】と呼ばれる訳です。そこでよく言われるのが「だから指をよく使う人はボケない」など、『指を使う事』の重要性です。しかしそれでは、この事象の本質を半分しか理解していません。
上の絵をもう一度よく見てください。指だけではなく手首から先の『手指全体』が巨大に描かれています。つまり指を含め手の平全体で感じ動かす事が重要なのです。
では何故、大脳と手との間でこのような関係性が生まれたのか、それはそもそも、【手を使う事によって初めて、人間の大脳は飛躍的に進化発達し得た】という生物学的な史実があるからです。下の画像はよく見る絵柄ですが、この人類進化のプロセスを象徴的に表しています。

人類の進化を表すよく見る絵柄:Wikimediaより

ここで「手を使う」という状況をより具体的に表せば、それは「一本の棒をその手に握り操作する」という事でした。
サルの時代に慣れ親しんだ樹上生活をやめ、大地の上で直立二足歩行を始めた事で、私たち人類の祖は二本の腕が自由になった。その自由になった手に長さはさておき【一本の棒】を握って、それを目的に合わせて様々に工夫して『操作=マニピュレーション』する事によって、彼らは猿の次元から急速に離脱し、その優れた大脳を発達させ霊長類ホモ・サピエンスへと登りつめました。
つまり、人類の【大脳化への定向進化】を切り開き推進し、この高度に発達した現代科学技術文明にまで至らせた、その大本は【一本の棒との出会い】だった。
試みに、自分の手を手の平を上にしてテーブルに置いて見てください。自然に脱力した状態で、何かを乗せるに丁度いいように具合よく湾曲してはいないでしょうか。まるで箸置きが箸を乗せてくださいと言わんばかりに窪んでいる様に。
その湾曲の底を横に辿ると親指と人差し指によって作られるU字の股があって、いかにもその股と手の平の窪みに沿わせて、手頃な棒か何かを握らせたくなりませんか?
猿から人へと進化する過程で、我々のご先祖様はおそらく100万年単位の時間軸で、そのように棒を握りしめ、操作し続けた。それは文字通り生き抜く上で欠かせない【相棒】でした。その結果大脳は著しく発達し、その結果として私たちの手は今、そのような形になっているのです。

マサイにとって一本の棒は文字通りの相棒だ:Serengeti.comより

その歴史は、上の伝統的なマサイの姿に象徴的に表れているでしょう。戦争や狩りの時は槍を牛追いの時は棒を、そしてそのような仕事上の必要性がない時でさえも、彼らは肌身離さぬ【相棒】として、常に一本の棒を携えています。
たとえ夜眠っている時に肉食獣に囲まれたとしても、複数人が長棒を持って対峙すれば生き残れる可能性は飛躍的に高まる。そんな文字通り「守護者」としての棒の威力、その有難みを知り尽くしているからこそ、彼らはそれを手放さないのでしょう。

Wikipediaによれば、現在発見されている霊長類最古の直立二足歩行の証拠はおよそ700万年前と言われています。その後長い時を経て300万年前ごろには、ヒト属猿人による最初の石器の使用が確認でき、それがその後長きにわたる石器時代の幕開けとなりました。
この石器の製造・使用が人類の大脳化に大きな役割を果たした、という説が一般的ですが、私はそれ以前の数百万年間、木枝(あるいは動物の長骨)を用いた『棒器』時代、というものを想定しています。
石器が何故ことさらに取り上げられるのかと言えば、それが100万年単位の時を超えて遺物として残されて、当時の使用や加工の状況を明確な物証として示すことが出来るからです。
一方で木質の棒の場合は、簡単に朽ちてしまい現在まで残される事は決してありません。けれど人類の進化を考えると、この『木棒器』の存在こそが最も重要であった可能性が高い、そう私は考えています。

そもそも人類は樹上生活をする霊長類の一種から進化しました。その霊長類の祖を辿ると、白亜紀に生息していた小型の原始哺乳類である食虫目に行きつきます。
当時は恐竜が大繫栄する時代であり、肩身の狭い新参の哺乳類は恐竜と競合せずその脅威から逃れるために、小型で夜行性、林床をはい回ったり樹上で生活するなど、雌伏に近い生活をひっそりと送っていました。
ところがおよそ6500万年前巨大隕石が地球に衝突し大型の恐竜が絶滅すると、生き残った哺乳類の祖先たちが空白域となったニッチに適応放散していきます。中でも樹上生活に適応し進化していったのが、私たち霊長類の祖先でした。

彼らは原猿段階で平たい顔両眼による立体視を獲得します。当時の手は親指が他の四指とは明確に分離しているものの、その対向性は未発達でした。しかしその段階でもすでに木の幹や枝をつかみ把持するという機能を獲得しており、それはおそらく、少なく見積もっても5000万年以上も前の事だったでしょう。

棒状の枝を握って身体を保持し移動する。Red slender loris:By Dr. K.A.I. Nekaris, Wikipedia

やがて真猿の段階で拇指対向性を獲得すると、親指と他の四指が向き合う事によって枝を手でしっかりと握れるようになり、肩関節の広範な可動域の獲得と相まって、木に登るだけではなく、いわゆる雲梯のように両手で交互に枝を次々とつかんで移動する『枝渡り』が可能になりました。
両眼視によって空間を立体的に把握し、枝と枝の位置関係・距離感を正確に認識して、両手を巧みに繰り出して枝をつかみ渡る為には、高度な身体操作と視覚神経との連携が求められます。その営為の積み重ねが霊長類の脳神経システムを飛躍的に進化させ、ひいてはそれが人類ホモ・サピエンスの大脳化の基盤になった、と考えられます。
ここで重要なのは、枝や蔓をつかみ、つかんだその手を中心に身体を巧みに操作して空間を渡る、という運動様式です。枝というものは木の幹から生えている状態では気付きにくいけれど、形状といい太さといい、それは一本の『棒』だといって良いでしょう。
つまり言い方を変えれば、つかむに手頃な一本の枝を幹から切り離せば、使うに手頃な一本の棒になる。

霊長類の手は棒をつかむ様にできている:クロテナガザル、By Raul654, Wikipedia

棒をその手につかんで巧みに身体操作する、という極めて人間的な営為は、実は既に原猿の時代から連綿と、5000万年という気の遠くなるような時間軸で、繰り返され積み重ねられてきた生態だったのです。
以上の進化史的な事実に加え、原生類人猿などによる道具使用の実例を考慮すると、人類の祖先が樹上生活から地上に降りて直立二足歩行に移行していくプロセス、そのかなり早い段階で、木棒の道具としての使用が獲得されていた可能性は極めて高い、と私は判断しています。
そこには、「そもそもヒトの直立二足歩行それ自体が、棒の使用に対する依存度の高まりと共に、『棒を常に持ち歩く』為に、手を歩行から完全に解放する必要に迫られた結果である」可能性すらあります。
どちらにしても、霊長類の進化から直立二足歩行の獲得、そして人類の大脳化へと至る全てのプロセスにおいて、【手で棒(枝・幹)を握りそれを肩、肘、手首、手指各関節の可動域を生かして巧みに操作する】という営為が、ある種の原動力として中心的な役割を果たしていたのは間違いないでしょう。

私たちヒトの心身および脳神経システムは、一本の棒を手に握り試行錯誤しながらそれを合目的的に操作する事の積み重ねによって、今ある姿へと進化してきた」

直立二足歩行の開始から数百万年が経ち、やがて石器利用の時代が来ると、一本の棒は自ずからそのとなってを生み出し、人類はそれらを日々握りしめ操作し続けました。それは漁師においてはとなり釣り竿となり、農耕が始まると同時にそれは突き棒となりとなりとなり、そこでも私たちは柄としての棒を握り、それぞれの目的に応じて巧みに操作し続けました。
近代化以前の伝統的な日本人の生活を考えて見ても、およそ9割と言われる百姓農民の日々の生活は、まさしくそのような農具の柄としての棒を操作する事の繰り返しでした。支配者である侍の生活もまた、刀剣の稽古を通じて棒状の武器を如何に操作するかを究めていく事が、そのアイデンティティの根幹でした。彼らの日常業務である官僚的な書記の仕事もまた、という『短棒』の精緻な操作に他ありません。
かつて、人間が一人前になるという事はイコール、「合目的的な棒の操作に熟練する」という事だった、そう言っても言い過ぎではないでしょう。それぐらい「棒を握って操作する」という営為は、人間が生きる事そのものだったのです。
ヒトの脳と心は、本然的に手頃な棒を握り操作する事を欲しています(あなただってそうですよ 笑)。それこそが彼らの原風景そのものだからです。
しかるに、この便利になった現代都市文明の中で、私たちの生活からその様な棒との親密な関係性は大幅に失われてしまった。その事による弊害が実は非常に大きいのではないか、と私は感じています。
よく聞く話で、田舎で独り暮らしをするおばあちゃんが年をとっても元気に鍬や鎌を使って畑仕事をしていたのに、都会に住む子供たちが独居を心配して施設に入れたり、あるいは自分たちと同居させたりして畑仕事ができなくなった途端に、急速に認知症になってしまい寝たきりになってしまうケースがあります。
棒との付き合いを忘れてしまった現代都市生活者の多くが、実は彼女と同じ状況にありはしないでしょうか。
ヒトの、その手の平と棒との、かつての親密な関係性を取り戻すことができれば、私たちの脳神経・心身システムは、その総体において目覚ましく活性化する事が期待できます。
先に指摘したように、私たちの手の平は素の状態で棒を握りやすい形に造られている。分かり易く言えば棒と手の平との関係性は、ちょうど神経伝達物質とその受容体レセプターの関係性に似ています。いわゆる『カギと鍵穴』です。棒を手の平の窪みに当てはめた瞬間、私たちの脳は無意識下で否も応も無くスイッチが入って、握って操作しようとする意志が目覚めるのです。
脳にとってそれは魂の原郷そのものであり、あるいは歴史的アイデンティティであり存在理由であり、喜び以外の何物でもない。正に水を得た魚ならぬ【棒を得た脳】です。その恩恵は計り知れない、そう私は考えています。
新生児に見られる把握反射にもよく表れていますが、ここで強調したいのは、手の平に対象物が触れた瞬間、脳内で生まれるだろう化学反応です。世間によくある脳トレのように『無目的な素手の指運動』ではなく、棒を握ってそれを触覚しつつ手指全体を使う、さらには腕全体から全身にまで連動する、合目的的で巧緻なマニピュレーション・エクササイズこそが必要なのです。
それこそが真猿類の時代から前近代にいたるまで、私たちの祖先が連綿と受け継ぎ生き抜いてきたルーティンそのものだからです。
そんな人類と棒との歴史的な親密性を取り戻し、私たちの脳と心を根源的なレベルで活性化してくれる生涯にわたるデイリー・エクササイズ。その最有力なひとつとしてバーラティア棒術を提案したい、というのが、ここでの基本的な主旨になります。
もちろん、上で説明したような脳の活性変化は、私たちが気付かないだけで野球のバットやテニスのラケット、金づちや包丁の柄などを握り操作している時にも起きているはずです。しかしそれらは特殊な用途に限定されていると同時に、『利き手』に偏ってしまっています。
また単に棒を握って動かす、という点では、バーベルやダンベルのトレーニングも同じように見えますが、そこでは単純で機械的な動きに終始しており目的を持って試行錯誤し『巧みに操作する』という要素が欠落しています。それでは退屈過ぎて、脳を充分に活性化できないでしょう。
この『棒を握り巧みに操作する』という脳システム活性化のキー・ファクターを、誰もが楽しめそしてハマってしまう形で汎用エクササイズ化しているのが、バーラティア棒術なのです。
人を人たらしめたもの、それは直立二足歩行手による棒の巧みな操作・マニピュレーションでした。けれど足の本業であるウォーキングは健康法として大きく取り上げられ実践されているにもかかわらず、手の方は蔑ろにされてしまっている。それでは片手落ちならぬ両手落ちです。
というものの進化史的かつ歴史的な本業であった【棒の巧みなマニピュレーション】を、手と大脳との本来的な関係性に即した『小手先ではない形』でエクササイズとして取り入れて、脳と心を含めた全身体システムを活性化して欲しい、というのが、バーラティア棒術のコンセプトになります。

バーラティア棒術はインドにおいて数千年にわたって継承・実践されて来た武術的エクササイズですが、上の動画に見られるように、利き手に関係なく同じ技を左右両方の手で交互に行っていきます。また上級レベルでは両手で一本の棒を握って回したり、両手に一本ずつ棒を持ってそれを同時に別々に回していく技もあります。
これは私自身の実感でもあるのですが、利き手ではない左手を右手同様に使いこなす事で生じる効果・メリットは、後述する【ゾーン養成】という観点も含め、非常に大きいと考えられます。
よく知られている様に、私たちの身体は右手が左脳左手が右脳に神経的につながっており、これら二つの大脳半球はそれぞれ、左脳は言語、数学など論理的思考を、右脳は音楽や図形イメージ、空間認識などの直感的感性を司っています。
そして人類の9割以上は右利きと言われ、その結果として現代に至る文明社会は凡そ左脳優位で成り立っています。しかし社会レベルであれ個人レベルであれ、その事による弊害もまた多いのではないか、というのが私の感触です。
私たちの日々の生活の中で、ある意味蔑ろにされがちな【右脳感覚】、それを活性化するエクササイズとしても、バーラティア棒術は非常に有効な選択肢のひとつになるでしょう。
またこのエクササイズでは、自分の身体の周囲スレスレをかすめる様な形で、あらゆる方向に棒を回していきます。初心の内は棒をしっかりと目視しながら回しますが、慣れてくると視野の隅で棒の動きを捉えながら感覚的に回せるようになり、最終的には同じことが、目を閉じた状態でも脳裏でヴィジュアライズしながらハイスピードで出来るようになります。
そこでフル稼働しているのは、無意識下で行われる極めて右脳的な直感的空間認識と『手の内』的な触覚との、巧まざる連携です。
巧みなマニピュレーション巧まざるコーディネーション。この二つを両輪のように合わせ持ったバランスこそが、バーラティア棒術の醍醐味だと言えるでしょう。

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