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他者の目を通してしか見えないものがある。「諏訪敦 眼窩裏の火事」

過日、府中市美術館で開催中の「諏訪敦『眼窩裏の火事』」へ。

このフォント、好きだなぁ。

本当は、行くつもりはなかったのだ。
Instagramで流れてきた(作品)の画像が、あまりにも生々しくて、ほんの一瞬だったのに背中がゾクッとしてしまって。
でも、一度見てしまったら、脳裏に焼きついて離れなくて。
つまりそれほどインパクトがあったということ。

写実絵画の“トップランナー”、第一人者として知られる諏訪敦。

単に目の前にいるモデルの姿、目の前にあるものを描き起こしているではなく、一枚一枚、緻密な(展覧会資料には“執拗なまで”と)取材をもとに描いていくという。

こうして少しずつ炙り出される時代背景や家庭環境、生い立ち、性格、クセ…。
きっとこの人の前に立ったら、ハダカよりも丸ハダカにされてしまう。シミ、シワ、自分でも気づかない場所にあるホクロにいたるまで、隠すことはできないだろうな。
そんなことを思ってまたゾクっとする。

アンティークと新品のガラスを描き分けるって 
ものすごく繊細で、変態的な技術だと思うのだけれど。

眼窩裏の火事という印象的なタイトルは〈閃輝暗点〉に由来するのだとか。
閃輝暗点(せんきあんてん)とは、脳の中にある、視覚を中枢する「視覚野」の血流が変化することで起こる(と考えられている)視覚異常のこと。
突然、視野の中にキラキラ、ギザギザなど光の波ができるのが主な症状で、諏訪氏の場合、視界の隅が燃えているような感覚だという。

片頭痛が伴うというけれど、ただ痛みに耐え、症状が去るのを待つのではなくその瞬間にしか見えないものを捉え、絵に落とし込んでいく。
その過程を想像すると、画家の執念、感性に圧倒されるばかりだ。
(わたしが頭痛を起こしたときは、ギリギリまで堪えてロキソニンを飲み、あとはひたすら薬が効くまで耐えるばかりだもの)

パンフレット(無料の)もきれいだった。
上の横たわる女性像が《HARBIN 1945 WINTER》

展示は「棄民」「静物画について」「わたしたちはふたたびであう」の3章で構成されている。

「棄民」を辞書で引くと〈戦争や災害などで困窮している人々を、国家が見捨てること。また、その人々〉。
満州事変以降、日本政府は満州への移民を促進したが、敗戦後、移住者を棄民している。

ここでは、諏訪氏が亡き父親の手記をもとに旧満州を訪れ、終戦直後に満州で亡くなった祖母を描いた《棄民》や《HARBIN 1945 WINTER》などが展示されている。

このイカの透明感がやたら好きで。
画面左下に描かれたゆらぎが“閃輝暗点”で見える光らしい

「静物画について」に展示されているのは、文字通り静物を描いた作品群。
豆腐、ガラス、イカ、柿…生々しい質感に惹かれる。
わたしはここにが好きで好きで、豆腐の絵につい近寄りすぎて注意されてしまったほど。

「わたしたちはふたたびであう」では、メインビジュアルにもなった最新作《Mimesis》をはじめ、肖像画が並ぶ。

大野一雄にインスパイアされた舞踏家、
川口隆夫をモデルにした《Mimesis》 
畏怖を覚える。※個人の感想です

やはり目を惹くのは舞踏家・大野一雄の肖像画だろう。
諏訪氏は大野氏が90歳を過ぎた1999年から取材を始め、描き続けた。
舞台で舞う姿だけでなく、おそらく最晩年のベッドから起き上がれなくなった様子も描かれているのが印象的だった。

第1章にも、寝たきりになって病院のベッドで管に繋がれている父親を描いた作品が展示されていたのだけれど、自分がこんな状態になったら、絶対に描かないで(写真にも撮らないで)ほしいと思うだろう。
身近な人が、身内のそんな姿を描いたり写したりいしていたら眉を顰めるかもしれない。

でも、なんだろうな、不思議と温かい印象を覚えた。

“視る”ってなんだろう。
“美しい”ってどういうことだろう。

いま、隣で同じものを見ている人が、自分と同じように目の前にあるものを捉えているわけではない。

そんな当たり前のことに気づかされた展覧会だった。

ところで、恥ずかしながら大野一雄というひとのことをよく知らなかったわたしは、帰宅後初めてYouTubeを通してその舞踏を観て驚いた。
官能的で、感覚的で、美しくて、力強くて…こんな人がいたなんて!

そういえば、舞踏の舞台は観に行ったことがない。
どんな雰囲気なんだろう。

年齢を重ねるほど、新しいものを観たり、触れたりするたびに、見たいもの、知りたいことが増えていく。
この貪欲さは、ずっと持ち続けていたいなと思う。

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