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勇気くじきから考える相手との向き合い方(第1話)

 コロナウィルス時代において、人との繋がりが一層明確になり、個人が自分らしく生きていくライフデザインが求められていると感じています。
 その時に、今まで見過ごしていた人間関係が、如実に当人やその方の周囲に影響を与え、結果として、この生き方や生活で幸せだと思えるか。はたまた、取り巻く周りの人間がやる気を無くしたり、仲違いや争いがしょっちゅう起きるという状況になるかと小生は考えます。

 得てして、人とのトラブルが起きてしまう時に、その原因を、周囲の関わる人や環境に求めてしまうことを少なからず見受けますが、実は人間関係のトラブルの原因は、相手や他者ではなく、自分自身の心の向き合い方に起因するのだと思います。

 アドラー心理学では、「勇気づけ」「勇気くじき」という概念で他者とのコミュニケーションのあり方を伝えています。

 「勇気づけ」とは、困難を克服する活力を与えるという意味を持ち、様々な出来事を未来志向で向き合っていく効力のことを差します。ただ単に相手を褒める行為とは異なり、相手の存在を尊重しながら、自分の感情と紐付けいき、相手のプロセスの良い部分を汲み取って、その方との関係性を良好していく発想です。

 例えば、子どもに向けて、何かができた時に、
 「えらい!」とか「天才!」といった表面上の声がけではなく、「ここまで頑張ったことをお母さんは嬉しく思うわ」という形で、行動のプロセスを理解、評価をしながら、自分にとって相手の行動をどのように認知したかを具体的に伝えることで、当人の存在承認を深めていくということなのです。

 これとは逆に、「ダメじゃないの」「いつもそうなんだから……」という風に相手の行動の成果ばかりを求めてしまい、それを批判的に伝達する行為を「勇気くじき」と言います。これを受けた側は、目標に向けての効力を徐々に失っていき、無気力になったり、癇癪を起こして相手を批判的に捉えてしまったりするのです。

 ですので、「勇気くじき」は相手にとっても辛辣な行為ですが、巡り巡って当人自身をも傷つける行為と言っても過言ではないのです。

 今回は、小生が「勇気くじき」を受けてきた事例をあえて取り上げながら、どのようにしてその「勇気くじき」を捉え、向き合い、未来志向に切り替えてリフレーミングをしていったかをお伝えしていきます。万が一、みなさんがそのような人や状況と遭遇してしまった際の気持ちの持ち方の参考にしていただきたいと考えています。

事例1:「2019年6月関西出張での児童の自死を考えるフォーラムにおいて公立学校の教員」

 小生は、とある講演会のために、大阪に出張しておりました。
 講演会はお陰様で大盛況で、翌日時間が空いたので、友人がネットで探してくれたとある兵庫のフォーラムに出向くことになりました。
 それは、いじめを苦にして自死をしてしまったお子さんの保護者の方々の集いでした。
 陰湿ないじめや学校の不誠実な対応で、児童たちが自ら命を絶つという痛ましい内容で、小生も当事者ご家族の各々のお話を聞いていて、
学校の主体性のない対応や隠蔽体質があることを知り、胸が痛くなる思いでした。
 小生も学生時代は毎学年いじめを受けていたので、自死する子どもたちの気持ちがとてもわかるのです。
 弁護士の方や、学校教育をご専門にされている大学の准教授の先生などからお話を伺い、学校に対しての対応責任を求める強い想いを感じました。

 その中で、小生はある意味一見さんの一般参加として、あえて立場を隠して参加をしていたのですが、議論される内容が、学校の批判的な内容と責任追及ばかりだったので、小生は、逆にどうやったら学校がオープンでポジティブな環境になり、子どもたちの主体性と自律性を育んでいけるかを考えていました。その議論がないと、いつまでも他責の追及だけに留まってしまわないかと思ったからです。

 そして、参加者が感想を述べる時間が訪れました。あえて無言のままイベントを終えても良かったのですが、やはり発言することで、ここに来ている意味があると思い、いつもの通り、積極的に手を上げて発言をいたしました。

 命の大切さの話をするのであれば、講演会でしているような犬猫の命を追いかけてきた体験から命の大切さを教育現場でも伝えています、みたいな話もできたのですが、今回のテーマは、表面上の綺麗ごとでは済まされないことだと思い、あえて踏み込んで、学校教育のあり方を伝えるために、「アクティブ・ラーニング」の実践の話題をいたしました。
 学校が主体的になり、相互で信頼関係を生み出せれば、いじめをする行動要因も自然と消えていきます、というような内容だったと思います。
自分としては、他の参加者の方が絶対にしないような話題を伝えられたと思い、良かったと思った直後に、最後方に座っていた男性がしかめ面で勢いよく挙手をしたのでした。
 何を話されるのかと思ったら、

 「アクティブ・ラーニング」なんて自分勝手な発想だ、という猛烈な批判が入ったのでした。
 その方のお話のされ方は、自分は教員歴17年のベテラン教員だが、アクティブ・ラーニングをやっている教員は自分のことばかりを考えていて、いじめられている生徒のことを無視している、みたいなことをお話されたのでした。
 なるほど、そういう現状があるんだな、と私は思いましたが、その方の発言はまさに「勇気くじき」でした。

 自死を考えるフォーラムで、アクティブ・ラーニングなんて最低だ。

 みたいなことを話されたのです。あまりに一方的な発言に、小生も当時一瞬カチンと来ましたが、穏やかになろうと心を鎮めていました。
 ですが、フォーラムの休憩時間になってもその教員の怒りが収まらないらしく、小生から、「あなた様のご意見もあると思いますので、双方穏やかに話しませんか」と伝えても、当人は怒り心頭で、
「おまえは何もわかってないんだ!」という罵声を発していました。
 大変残念なことに主催側にいた教育をご専門にしているという准教授の方は、この状況を見向きもせずに、知らん顔。

 こんな方々が現場にいては、残念ながら、教育の現状が明るく変わるわけがないなと思い、高ぶる気持ちを抑えつつ、その場を立ち去りました。

 この空間は、まず、相手を尊重するという環境になっていないこと。
 確かに子どもたちの自死は辛辣で苦しい出来事です。ですが、いじめをした子や受けた子ばかりに目を向けるのではなく、学校が日頃からどのように学びの環境を創っていたのか、そのことが小生は何より大切だと考えます。

 建設的な意見を述べる上で、会場全体に共感や相互尊敬を大切にする空気感がなければ、一方的な意見や感情のぶつかり合いになるのは当然だと思います。そういう視座を持てる方が当日、小生以外にいなかった(いたかもしれませんが、名乗り出られなかった)ことで、子どもたちの命という題材も、大人同士の感情のぶつかり合いになっては、彼ら・彼女らの尊い命が報われないのです。

 そして、トラブルが起きたフォーラムでは、発言者と聴く側の安心・安全の場が醸成されていないこと、これがまさに学生の自死が起きてしまう学校の状況と同じであると、感じたのでした。

 小生に噛み付いてきた教員は、「死んだ子はアクティブ・ラーニングができねーんだよ、考えろ」と暴言を吐いていました。
 こういう形で他者理解をせず、一方的な価値観の元に相手を否定してしまうことは、勇気くじきです。

 彼のような表面的な理解でなく、アクティブ・ラーニングを深淵から理解されていれば、それが、何も子どもたちがグループで話し合うだけのことでないことはご理解いただけると思います。

 教育を受ける子どもたちが協働で課題に向き合う効力感は、教員が如何に彼ら・彼女らの存在を受け入れていき、子どもたちの想像性や協調性をファシリテートしていく環境を作れるかが大切なのです。

 ですから、向き合うのは、実は子どもたちではなく、まず、教員自身の子どもたちに対しての姿勢であるのです。

 現場の教員の方の中には、やはり一面的に物事を捉えてしまい、自身の価値観が全てだと思い込んでしまう方々がいらっしゃること、そして、教育を扱う大学の准教授の方でも周囲が大変な状況に知らん顔という知識でしか物事を捉えていない方がいらっしゃることを知る良い体験となりました。

 この時に、小生が感じたことは、勇気くじきをされる方は、心の部分では、孤立しているということです。

 上記に書いた通り、その方は、「自分が教員歴17年のベテランだ」ということを誇張していますが、彼にとってはそれが一つのプライドなのでしょうね。

 ですが、小生が思うに、自己をしっかり肯定できる方は、他人に対して、俺はすごいとか、俺は何歳だ、俺はこれだけやってきた、とは言いません。自己肯定できない人は、彼のように自分の殻を作らないと自分のアイデンティティが保てないのだと思います。

 このような方と向き合っていると、議論も平行線のままこちらが負のパワーを使ってしまいますので、自分の意見を意固地に曲げない人、相手の話をはなから閉ざしてしまう人からは、すぐに立ち去る、距離を置く。

 これがまず一番大切なことです。
 ご自身の心を芯までえぐられる前の防御策です。

 逃げられたら、まずはそんな自分を勇気づけると良いと思います。あの状況でトラブルを最小限にして逃げられたことは勇気ある行動だ、と。

 そのあとで、落ち着いたら、相手の話の内容やその方の普段の状況を想像してあげることが大切だと思います。あのような強い言葉を吐くには、きっと日頃から多くの屈折した感情を抱えたままだろうな、たまたまその矛先が自分になってしまったんだなと。
 そうすることで、相手に向けてもある程度の理解を示すことができれば、それは相手を受けていれていくというこちらからの歩み寄りも繋がるのです。

 そして、そんな相手を認めてあげられたこと自分を、よく頑張ったねと、最後に自分自身を讃えてあげることが大切です。

 例え、負の感情をもってもそれは正常なことで、少しずつその意識をプラスに運んでいこうと心がける前向きな姿勢が重要だと思います。

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 勇気くじきを受けてしまって、相手に恨みや憎しみを持つと、その感情によって、今度は自分自身が誰かの勇気をくじいてしまう当人になりかねません。

 地球が太陽と月に見守られているように、この世は属性の違うモノ同士が共存しています。

 だからこそ、大切にしていきたいことは、価値観が違うからとって、むやみやたらに相手を非難したり、批判はしない。感情的な非難や批判は、地球の生命的な哲学から背くのわけですから、そういう方は、いつまでも本質的な人が集まらないのだと思うのです。

 本質的なことを大切にできる人は、人に寛容であり、自分を受容できることだと思います。

 価値観を固定せずに、様々な視座を身につけていく。

 そんな自分のあり方を探究することが生きる上でのミッションであり、
それが巡り巡ってかけがえのない幸せとなって自分のもとに訪れるのだと小生は考えています。

(第二話に続く)


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